「普通」は幻想、「規範」ではない
2014年 03月 01日
普通の家庭というのは幻想であった。
しかし、それは普通の家庭を構成すべき普通の家族というのも幻想であるという結論に導かれる。
普通の父も母も子供も、男も女も、どの個人に対しても「普通の人」と呼ぶことはできないのだ。
「普通」という言葉が「健康である」「多数派である」というような基準を示すとき以外には、想定しようがない。
「社会」という言葉が、実は個人個人の人間の活動なしには存在できないように、
「普通」という言葉も、実は「普通」という確固たる基準をもたない個人個人の集まりが多数派であるときに初めて言いうる。
さらに、「多数派=普通」というのは部分的には正しくとも、正確には幻想である。
しかし、幻想でも自分が多数派で安心したいがために「普通」というかりそめの幻想を人は信じている。
それは、「普通信仰」とでもいうべき「信仰」であって、事実ではない。
私があると信じて、そうありたいと願った「普通」など、この世のだれも体現してなどいなかったのだ。
「典型」はある。しかし、「典型」もまた「普通」と合致はしない。
昭和天皇が侍従から「雑草」という言葉を耳にされて、「雑草という名前の草はない」とお答えになられたというエピソードがある。
そうなのだ。草花にはひとつひとつの俗称や学名がある。「雑草」という呼び方は、ひとくくりのかりそめの言い方に過ぎない。
私のもっとも「まとも」と信じてきた「普通」とは、しょせんたくさんの草花をまとめて「雑草」呼ばわりしたのと同じことだ。
「まとも」とか「普通」とか「常識」は、十把ひとからげの「かりそめの言い方」であったのに、それを厳密な真理真実のように思ってきた。
それは大きな間違いだ。人類は、60億人分の人格・個性の集合体である。
それを「普通」「普通でない」というフィクショナルで大雑把な概念で仕分けるのは、もう無理だ。
いったいこれまで信じてきた「普通」への傾倒はなんだったのかと呆然とする。
しかし、この「普通幻想」なしでは私は生きてこられなかったのだ。
親や祖父はアルコール依存症で、祖母は人格障害者という環境で、いったいどこに健康な大人になりうる「規範」があったか。
ACとしての私には、頼りすがるべき安心できる「規範」がなく、大部分が見ようみまねの「自己流解釈の普通」を自分で演じるしかなかった。
そのために、いつも周囲の目が気になって仕方がなかった。その不安感と恐怖が、自己流でない確固とした誰に適用される「普遍的な規範」にあこがれた。
そして、それを宗教的・哲学的な美辞麗句をならべるカルト教祖に求めた。
もちろん、カルト教祖のそれは、他の偉大な賢人聖者たちの受け売りと剽窃に過ぎなかったのだが、そうとは見破れなかったのだ。
今は、自分で調べて体験的に規範となりうるさまざまな事柄を知った。
そこにたどりつくための苦悩と試行錯誤は、これまでブログに書いてきたとおり。
しかし、それは普通の家庭を構成すべき普通の家族というのも幻想であるという結論に導かれる。
普通の父も母も子供も、男も女も、どの個人に対しても「普通の人」と呼ぶことはできないのだ。
「普通」という言葉が「健康である」「多数派である」というような基準を示すとき以外には、想定しようがない。
「社会」という言葉が、実は個人個人の人間の活動なしには存在できないように、
「普通」という言葉も、実は「普通」という確固たる基準をもたない個人個人の集まりが多数派であるときに初めて言いうる。
さらに、「多数派=普通」というのは部分的には正しくとも、正確には幻想である。
しかし、幻想でも自分が多数派で安心したいがために「普通」というかりそめの幻想を人は信じている。
それは、「普通信仰」とでもいうべき「信仰」であって、事実ではない。
私があると信じて、そうありたいと願った「普通」など、この世のだれも体現してなどいなかったのだ。
「典型」はある。しかし、「典型」もまた「普通」と合致はしない。
昭和天皇が侍従から「雑草」という言葉を耳にされて、「雑草という名前の草はない」とお答えになられたというエピソードがある。
そうなのだ。草花にはひとつひとつの俗称や学名がある。「雑草」という呼び方は、ひとくくりのかりそめの言い方に過ぎない。
私のもっとも「まとも」と信じてきた「普通」とは、しょせんたくさんの草花をまとめて「雑草」呼ばわりしたのと同じことだ。
「まとも」とか「普通」とか「常識」は、十把ひとからげの「かりそめの言い方」であったのに、それを厳密な真理真実のように思ってきた。
それは大きな間違いだ。人類は、60億人分の人格・個性の集合体である。
それを「普通」「普通でない」というフィクショナルで大雑把な概念で仕分けるのは、もう無理だ。
いったいこれまで信じてきた「普通」への傾倒はなんだったのかと呆然とする。
しかし、この「普通幻想」なしでは私は生きてこられなかったのだ。
親や祖父はアルコール依存症で、祖母は人格障害者という環境で、いったいどこに健康な大人になりうる「規範」があったか。
ACとしての私には、頼りすがるべき安心できる「規範」がなく、大部分が見ようみまねの「自己流解釈の普通」を自分で演じるしかなかった。
そのために、いつも周囲の目が気になって仕方がなかった。その不安感と恐怖が、自己流でない確固とした誰に適用される「普遍的な規範」にあこがれた。
そして、それを宗教的・哲学的な美辞麗句をならべるカルト教祖に求めた。
もちろん、カルト教祖のそれは、他の偉大な賢人聖者たちの受け売りと剽窃に過ぎなかったのだが、そうとは見破れなかったのだ。
今は、自分で調べて体験的に規範となりうるさまざまな事柄を知った。
そこにたどりつくための苦悩と試行錯誤は、これまでブログに書いてきたとおり。
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シカゴ
at 2014-03-13 10:44
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私の家もアルコール依存症と人間関係依存系の家系です。これでいいのかな?といつもビクビクしながら暮らしていました。
アメリカに留学中偶然にもゴメズ教授一家の家に約1年間ホームステイしました。ゴメズ家は、酒も暴力もたばこもポルノグラフィも無い家で健康な家族でした。ゴメズ教授とはかれこれ8年経った今でも交流があります。将来ゴメズ家のような家庭を築けたらいいなあと思います。
私はいままでいろいろな人種や性別の人々と暮らしましたが、その経験は今では財産になっています。
日本はシェアハウスの文化がやっと芽吹いたばかりなので、他人同士暮らす習慣がもっと日本社会に浸透すると、家庭生活の規範の在り方ももっと変化してくるのではないでしょうか。
アメリカに留学中偶然にもゴメズ教授一家の家に約1年間ホームステイしました。ゴメズ家は、酒も暴力もたばこもポルノグラフィも無い家で健康な家族でした。ゴメズ教授とはかれこれ8年経った今でも交流があります。将来ゴメズ家のような家庭を築けたらいいなあと思います。
私はいままでいろいろな人種や性別の人々と暮らしましたが、その経験は今では財産になっています。
日本はシェアハウスの文化がやっと芽吹いたばかりなので、他人同士暮らす習慣がもっと日本社会に浸透すると、家庭生活の規範の在り方ももっと変化してくるのではないでしょうか。
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心炎
at 2014-03-14 01:26
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貴重な留学体験談をありがとうございます。故国よりも留学のステイ先の家庭のほうがよほど健全だったとは皮肉なお話ですね。肉親よりも他人と暮らしたほうがACはいいのだろうと思います。結婚相手に、自分の肉親に似た問題のある人(兼そのことに無自覚で回復していない人)を選んでしまうというリスクを回避できれば、血縁でない人と暮らすのがよほど回復に役立つと思いますね。
by ecdysis
| 2014-03-01 02:37
| アダルトチルドレン・依存症
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Comments(2)