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ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com


by 心炎

失っても、代償はある

 大事なものをなくして、人は喪失感に苦しみ、辛く悲しい鬱勃たる日々を送る。

 私もそうして苦しんできた。その嘆きは深く痛ましい。

 だが、いま想う。失ったものの代わりに、私は何かを獲得し自分を形成してきたと。
  
 獲得したと後でわかったもののほとんどは、喪失体験する前は、それを獲得しようとも、欲しいとも思わなかったものだ。

 19のとき、本気で愛した女性との関係を失った。その代わりに、私は「改心」を得た。

 24のとき、就職した有利な会社を辞めた。代わりに、文章を書く道に押し出された。

 26のとき、やはり愛した女性を失った。その代わりに、カルト宗教から脱却する道を得た。

 33のとき、恩師との関わりを失った。代わりに、自分らしさを育ててゆく道を得た。

 41のとき、実家の家屋敷を失った。代わりに長男の義務からの解放を得た。
 

 42のとき、酒を捨てた。代わりに自助会への参加を得た。

 44のとき、弟を失った。その代わりに何を得ているのかわからない。ただ、身内を不幸な失い方で亡くした人々の気持ちがわがことのようにわかるようになった。

 45のとき、母を亡くした。私は、そこから先祖や死者の霊を追悼し供養することの大切さを知るようになった。

 ざっと大きなものをあげても、このように私の人間性を形成する上で、大事なことが起きている。

 失うことは辛い。失いたくはない。
 
 だが、もし失うことがあっても、その代わりに別のものが与えられる。

 成長の糧が、必ず与えられると信じよう。
# by ecdysis | 2012-01-24 02:52 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

自分に正直になること

 自分が好きなものは好きだと、嫌いなものは嫌いだと、はっきりと自分に断定することは大事。

 自分が信じていないものを信じていないと自覚し、信じているものを信じていると断定することも大事。
 ほかのひとがどうだからということではない。

 自分なりの体験と考えではどうするのか、どう結論づけ、どう行動化するのかということは、助言やアドバイスを仰ぐことはあっても、最終的に決めるのは自分だ。

 同様に、自分にとって必要なことは必要だと認め、不要なことは不要だと受け入れることも大事。

 しかし、ただひとつの注意点は、「信じるに値しないものを、信じるに値すると思いこんでいないだろうか。また、信じるに値するものを、信じるに値しないと思い込んでいないだろうか」という点は、本当に注意を要する。

 いずれにせよ、自分に正直になって決断することが大事だ。
 他人がどう思おうと、自分の正直な気持ちが「ダメ」と断じたものは、自分にとってダメなのだろうし、「OK]と断じたものは、自分にとってOKなのだ。

 以上、あたりまえだが、忘れがちなことを備忘として記録しておく。
# by ecdysis | 2012-01-09 22:25 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)
 また苦手なクリスマスと年末年始がやってきた。

 あからさまに落ち込むことはなくなったが、それでも情緒不安定になる。
 ことに空気が寒く、しかも買い物客でにぎわう場所に出ると、いいようのない哀しみと孤独感が、しのびよってきて、知らない間に不安定になってくる。

 普段は仕事などで忙しいから気付かないでいる。
 だが、休日でゆっくりまわりや自分を見られるようになると、このしのびよる過去のトラウマが、壁にしみついた影のように現れる。何度塗り変えても、どれだけ厚塗りしても、その影は決まった時期に浮き上がるのだ。

 今日もそうだった。
 私には、ともにいる家族がいない。
 いつも、そこでつまづく。
 実際に家族はいたのだが、親密で心の通い合いのある「家族」はいなかった。
 いな、そういう「家族」を自分の血縁に求めて、そうありたいと願ったが挫折した。
 それなのに、血のつながらない「家族」も想像できない。 
 もちろん、家族的な感覚の持てる友人知人たちはいて、彼らはかけがえがない。
 だが、私の中では「家族そのもの」ではない。

 おそらく、この「家庭」「家族」という言葉やイメージや願望に対するとらわれが、私の生涯にわたるであろう苦しみの本源だろう。そのはなはだしい「喪失感」が、私の心にいつも消え去らない冬を運ぶ。
 そうだ。この「喪失感」。願い求めて得られなかったという、挫折感と喪失感に、私は病んでいるのだ。
 だからこそ、この季節、「家族」とともに、「家族のために」当たり前のように買い物をする人々の中にあって、私はひとり気が滅入るのだ。

 彼らには、団欒を囲む家族がいる。私にはいない。しかも、失ったものは取り戻せない。
 季節の風物詩ともなる年末商戦のにぎわいは、毎年のように私の「喪失感」を刺激しよみがえらせる。
 彼らの持っているものを、自分は持っておらず、しかもそれを得る努力も挫折し、希望も可能性も喪失したことを思い知らされる。

 この認識は、あまりにもつらすぎるが、この苦しみから解放されるには、私自身がもっと深いところから変わらなければならない。自分のおかれた現実に、「健康な仕方で適応する」ことが必要なのだ。

 その前に、この孤独な自分、喪失感にあえぐ自分も、自分の一部として認める。
 どれほど傷ついてぼろぼろで血を流していても、それも私の一部なのだ。
 ただの一部というだけではない。大切な、かけがえのない、なくてはならない一部だ。
 トラウマだらけの自分でも、過去の傷ついた人格たちは、幼年期から青年期にいたるまで、すべてそれぞれ大事な自分の一部だ。

 そう、それがどんなネガティブな自分でも、大切なかけがえのない自分なのだ。
 善悪正邪成熟未熟を問わず、私はまるごとの自分で、かけがえがなく大切で、ここにいてよい存在なのだ。

 そう信じて生きていこう。喪失した私もまた、大事な自分自身の一部なのだから。
# by ecdysis | 2011-12-26 02:43 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(4)

孤独は錯覚かもしれない

 もし、私が目に見えない大いなる意志との間において、孤独なら、その孤独を救うものはないにちがいない。
 人と人との間において孤独でも、目に見えない世界とそこにある意識とつながっていると信じるならば、まったき孤独とはならない。神々でも祖先の霊たちでもよいが、私たちが太陽なしでは生きられないように、常に頭上から降り注ぐ大いなる意志の光をあおぐことなしには、精神的に健全に生きることはできない。

 もし、神や霊的世界の存在たちとのリンクが切れたと感じるときがあったら、ひとつだけ忘れないようにしようと思う。

 われわれ人間もまた、神の一部であり、この現実世界もまた目に見えない世界の一部であることを。

 物理的にも精神的にも霊的にも、完全に隔離されてなにものともつながっていないというものはない。

 私という個人は、常に私たちという集団の一部であり、民族・国家の一部であり、星の一部であり、想像を絶する存在の一部であることを、忘れないようにしよう。
# by ecdysis | 2011-12-11 13:13 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)
 今はめったにないが、はたちそこそこから四十歳代までは、大きな精神的ショックを受けるたびに、大風邪をひいたり高熱を出したりしていた。それが心因性のもので、ショックを和らげ、考え方を変化させるための自己防衛・自己変革の現象なのはわかっていた。

 失恋や非常に期待したことへの挫折などで、たびたび高熱を発して寝込んできた。
 まるで、傷ついた心が発する毒素や、侵入しようとする有害な黴菌(ばいきん)を焼き尽くすかのように、高熱は私の中の何かを焼き払い、熱がさめたときには、自分の中の何かが変わっているのがわかった。

 私にとって、自分の高熱とは、今までそういう意味だけを持つものだった。

 しかし、最近、私は自分のAC性とそこからの回復について、何か言い知れないようなことが起こってきたと感じている。

 それは、たとえていえば、AC性という苦しみは、自分にとっては、健康な作物が育つのをさまたげる痩せた土地であり、繁茂して地面を覆う悪意あるたけだけしい野生の草木だ。痩せた土壌は生まれた家庭環境であり、野生の草木はそこで植えつけられた間違った価値観やトラウマやいとわしい記憶の数々だ。

 健康な作物とは、生まれながらに持っている良心や才能や健全性で、祖先からの継承によって(神によって)土の中に植えられているものだ。それらを阻害されたからこそ、ACになってしまったわけだ。

 原野のような痩せ地に密生する頑固な草木を排除し、土壌を肥やして作物を実らすには、ひとつの有効な方法がある。
 「焼畑」だ。原野に火を放ち、文目(あやめ)も分けぬおどろを焼き払って、その灰を肥料に作物を育てる。

 私についていえば、苦悩と挫折こそ、自分に「火を放つ」体験だったようだ。それが高熱の現象となってあらわれ、肥料となり、次の自分の成長を用意したのではないかと感じる。

 あたかも、それは灰の中からよみがえる火の鳥のようでもあるが、実際はそんなにかっこいいものではない。この火の鳥は、自分の発する炎の熱さに苦しみもだえながら生きるのだ、それでも、炎の中で自分を育てて、やがて空へと舞い上がる。
# by ecdysis | 2011-12-06 15:05 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)