アダルトチルドレンの年末年始
2008年 12月 13日
また、苦手なクリスマスと年末のうかれた季節がやってきた。
まったく苦手だ。盆暮れ正月関係なく、おとなたちの酒乱と精神障害のいざこざに日々を過ごしてきた私にとって、クリスマスや正月には、いい想い出がまったくないからだ。むしろ、世間や他の一般家庭が、お祝いやめでたさムードになっている分だけ、そこから取り残されているみじめさを、きわだって感じてきたのだ。
もちろん、見かけ通りに他の家庭が幸福だったり、満ち足りているわけではないだろう。それぐらいはわかる。だが、子供時分だけでなく弟や母が亡くなるころまで、クリスマスや正月は「自分の家の不幸さ」を、より痛切に敏感に思い知らされるときでしかなかった。
本当にいい想い出がない。人並みにご馳走や飾り付けはあるのだが、酔った父親、そしてのちには母や弟も加わって、家族どうしのケンカがはじまり、怒声や罵倒がとびかい、ガラスや家電や食器がこわされることになる。クリスマスの温かな部屋も、家族の阿修羅の狂乱とともに、ガラスがくだけて散乱する居間のサッシの穴から吹き込む寒風によって、たちまち惨めな寒冷の部屋に変わり果てる。テレビではきらびやかなクリスマス番組をやっているのに、私や母はその映像や音声を後目に、クリスマスイブの晩に、こわされたガラスのかたづけをし、穴をボール紙や板でふさぎ、寒風をおさえる応急処置におわれる。
毎年のように、そんなことがくりかえされたのだ。
ケーキがあってもツリーがあっても、それを喜び楽しむことなどできなかった。むしろ、日常よりも明るいハレの分だけ、それを人並みに享受できない自分の家のみじめさが、ことさらにきわだって、むしろうらめしかった。
飲酒の上での暴力が、ことさらにクリスマスや正月などのめでたいときに、なぜよりいっそう激しくなるのか。アルコール依存症の暴力タイプの一種の傾向だが、おそらく彼らも世間のめでたさや温かいムードになじめず、コンプレックスが増大するからかもしれない。だからといって、家族までその不幸さに巻き込まないでほしい。その意味で、飲んでいるアルコール依存症者は卑怯者だ。
この季節、クリスマスソングの流れる街に買い物に出かけるのは、苦々しくみじめな気持ちをかきたてる。
ひどくブルーな気持ちがよみがえる。自分はちがう人種だ。クリスマスソングの世間の輪の中に入れない、普通の家の幸せからとりのこされたものなのだという、暗い自意識過剰におちいってしまうのだ。
私にとって、クリスマスも正月も、明るさやめでたさからは遠いものであり続けた。それらの幸せなムードや明るさは、無縁な分だけ「フィクション」にしか感じられず、つくりものの演出と信じ込むことで、自分のみじめさをうち消そうとしたのかもしれない。
メリークリスマスというが、私はちっともメリーなんかじゃない。サンタクロースは、赤い服を着た赤の他人で、わが家を通り過ぎて別の家にゆく。明けましておめでとうというが、めでたいと思ったことなど、めったにない。自分の不幸さやみじめさを、よりいっそう際だたせる季節が、なんで素直に祝えるだろうか。
「よいお年を」とごあいさつではいう。だが、私にとって「よい年」だったときは、ほとんどない。
あるいは、よい年はあったのかもしれないが、それが記憶に残っていないほど、不幸な年の印象だけが強く刻み込まれているのかもしれない。いずれにせよ、この季節は、自分がACであることを、一年でもっとも強く感じさせられる時期で、たまらないみじめさに圧倒されずにはいられなくなる。
まったく苦手だ。盆暮れ正月関係なく、おとなたちの酒乱と精神障害のいざこざに日々を過ごしてきた私にとって、クリスマスや正月には、いい想い出がまったくないからだ。むしろ、世間や他の一般家庭が、お祝いやめでたさムードになっている分だけ、そこから取り残されているみじめさを、きわだって感じてきたのだ。
もちろん、見かけ通りに他の家庭が幸福だったり、満ち足りているわけではないだろう。それぐらいはわかる。だが、子供時分だけでなく弟や母が亡くなるころまで、クリスマスや正月は「自分の家の不幸さ」を、より痛切に敏感に思い知らされるときでしかなかった。
本当にいい想い出がない。人並みにご馳走や飾り付けはあるのだが、酔った父親、そしてのちには母や弟も加わって、家族どうしのケンカがはじまり、怒声や罵倒がとびかい、ガラスや家電や食器がこわされることになる。クリスマスの温かな部屋も、家族の阿修羅の狂乱とともに、ガラスがくだけて散乱する居間のサッシの穴から吹き込む寒風によって、たちまち惨めな寒冷の部屋に変わり果てる。テレビではきらびやかなクリスマス番組をやっているのに、私や母はその映像や音声を後目に、クリスマスイブの晩に、こわされたガラスのかたづけをし、穴をボール紙や板でふさぎ、寒風をおさえる応急処置におわれる。
毎年のように、そんなことがくりかえされたのだ。
ケーキがあってもツリーがあっても、それを喜び楽しむことなどできなかった。むしろ、日常よりも明るいハレの分だけ、それを人並みに享受できない自分の家のみじめさが、ことさらにきわだって、むしろうらめしかった。
飲酒の上での暴力が、ことさらにクリスマスや正月などのめでたいときに、なぜよりいっそう激しくなるのか。アルコール依存症の暴力タイプの一種の傾向だが、おそらく彼らも世間のめでたさや温かいムードになじめず、コンプレックスが増大するからかもしれない。だからといって、家族までその不幸さに巻き込まないでほしい。その意味で、飲んでいるアルコール依存症者は卑怯者だ。
この季節、クリスマスソングの流れる街に買い物に出かけるのは、苦々しくみじめな気持ちをかきたてる。
ひどくブルーな気持ちがよみがえる。自分はちがう人種だ。クリスマスソングの世間の輪の中に入れない、普通の家の幸せからとりのこされたものなのだという、暗い自意識過剰におちいってしまうのだ。
私にとって、クリスマスも正月も、明るさやめでたさからは遠いものであり続けた。それらの幸せなムードや明るさは、無縁な分だけ「フィクション」にしか感じられず、つくりものの演出と信じ込むことで、自分のみじめさをうち消そうとしたのかもしれない。
メリークリスマスというが、私はちっともメリーなんかじゃない。サンタクロースは、赤い服を着た赤の他人で、わが家を通り過ぎて別の家にゆく。明けましておめでとうというが、めでたいと思ったことなど、めったにない。自分の不幸さやみじめさを、よりいっそう際だたせる季節が、なんで素直に祝えるだろうか。
「よいお年を」とごあいさつではいう。だが、私にとって「よい年」だったときは、ほとんどない。
あるいは、よい年はあったのかもしれないが、それが記憶に残っていないほど、不幸な年の印象だけが強く刻み込まれているのかもしれない。いずれにせよ、この季節は、自分がACであることを、一年でもっとも強く感じさせられる時期で、たまらないみじめさに圧倒されずにはいられなくなる。
Commented
at 2008-12-16 01:06
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
ecdysis at 2008-12-19 01:08
お久しぶりです。私もお酒で楽しかった経験がなかったわけではありませんが、いつもケンカがあったり、泣いたり、孤独からの逃避があって、心底楽しめたことはありません。
さらに、私の年末年始の悲惨な心は、泥酔したぐらいで癒されたり、憂さを晴らせたりするようなものではありませんでした。私や家族が歴代にわたって直面してきた苦悩は、酒ごときで、どうにかなるような問題ではなかったのです。
>ちと楽しくて未練
というRさんのコメントは、残念ながら私には実感できません。
アルコール依存症によって曾祖父の代から悲惨な家庭環境に苦しんだ血族たちと、死んでしまった弟のことなどを考えたら、飲酒に対して髪の毛が逆立つような憤りと痛みと嘆きがあるばかりです。
酒に対する未練はありません。飲むことを覚えたことを後悔しています。酔って感じる楽しさなど、さめれば何もかも台無しになるまがいもの、偽り、欺瞞の快楽だと私は思いますよ。
さらに、私の年末年始の悲惨な心は、泥酔したぐらいで癒されたり、憂さを晴らせたりするようなものではありませんでした。私や家族が歴代にわたって直面してきた苦悩は、酒ごときで、どうにかなるような問題ではなかったのです。
>ちと楽しくて未練
というRさんのコメントは、残念ながら私には実感できません。
アルコール依存症によって曾祖父の代から悲惨な家庭環境に苦しんだ血族たちと、死んでしまった弟のことなどを考えたら、飲酒に対して髪の毛が逆立つような憤りと痛みと嘆きがあるばかりです。
酒に対する未練はありません。飲むことを覚えたことを後悔しています。酔って感じる楽しさなど、さめれば何もかも台無しになるまがいもの、偽り、欺瞞の快楽だと私は思いますよ。
0
by ecdysis
| 2008-12-13 11:35
| アダルトチルドレン・依存症
|
Trackback
|
Comments(2)