悪魔の誘惑の意味

 こんなことは、聖書学者の専門家たちが何百と本にしている題材だから、以下は、ひとつの私見だ。

 聖書関係の本を読んで、イエス(現地語ヨシュア)がキリスト(現地語メシア)として立つ寸前、40日間の砂漠の荒野での試練のことで感じたこと。

 悪魔が、「この石にパンになれと命じてみよ」と、断食状態のイエスをそそのかした。
 この「石」と「パン」のとりあわせが、実に意味深だと思った。悪魔のいいそうな、というか、人間の持っているエゴが先鋭化すれば、こういうことを考えつくだろうというパターンだ。

「石」を「パン」にする奇跡を、イエスは起こせたかもしれない。しかし、やらなかった。
なぜか? 「石」は「石」であるべきで、「パン」になってはいけないのだ。神の定めた秩序の中で、「石がパンになる」という変更は、最初のほころびとなる。これは「闇」が「光」になるというのと同じ意味合いで、「なんでもあり」の混乱を引き起こすもととなる。

 イエスのとった態度は、「石」は「石」のままとして受け入れ、「パン」は「パン」として受け入れる。ラインホルド・ニーバーの「平安の祈り」にある「変えられないものを受け入れる落ち着き」は、「石がパンになる」世界では決して得られない。

 石は、神がつくられた鉱物で、パンは、生きた麦という植物とそれを育てて刈り取り粉にして焼くという多くの人間の労働力があってはじめて食べられるものだ。もし、石をパンにできたなら、人間の労働力は無になってしまう。鉱物と生物の境もなくなってしまう。

 もちろん、イエスは病人を治したり、水を葡萄酒に変えたりもするが、それは「本来あるべき健康に戻す」「飲料を別の飲料に変える」という限定された範囲でのことで、鉱物をいきなり穀物にするような、物質世界の縄張り破りはしていない。

 つまり、「石」を「パン」に変えろということは、「神の定めた秩序をやぶってでも、自分の空腹という欲望を満たすためなら、もっている能力を使え」といってるわけで、これは「神の秩序より自分の欲に従え」「やれる能力があるんだから、やりたいほうだいやればいい」というエゴの命令に等しい。悪魔のいいそうなことである。

 それに対して、イエスは「人はパンのみにて生きるにあらず」といった。「変えられないもの」を変えてまでほしい場合が、人間にはある。しかし、そうまでして「欲しいものを手に入れる」ことが、本当にその人を「生かす」ことにはならないことがある。欲望の充足だけを果たすことが、その人が「生きている」あかしにはならないのだと。

 さて、固い話だったので、ある本で読んだジョークをひとつ。

「人はパンのみにて生きるにあらず。バターも必要である」
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by ecdysis | 2009-05-05 16:01 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)