世話焼きが欺瞞になるとき

 ACは、すぐに他者の不幸にひきつけられ、それをなんとかしようとする世話焼き病をもっている。私もそうだ。健全な感覚の人達から見れば「おせっかい」「よけいなお世話」なことを、ついやってしまう。

 だが、そういう一見「善意」に見えることも、「自分の問題さえ、ちゃんとコントロールできないものが、他人の問題をなんとかしようとするなど、おこがましい」という意見の前には、粛然とせざるをえない。まったくもって、そのとおりだからだ。自分の病気に苦しむ者が、回復もしないうちから、ほかの人の病気をなんとかしようというのは、問題をさらに大きくする愚行でしかないことが多い。

 なぜ、そういう愚行が起こるかというと、よく言われるが「自分の問題を見ないですむから、他人の問題に目をむける」というのが、どうもいちばん納得できる理由らしい。ようするに自分の問題から目をそらし、他人の問題に逃避しているということのようだ。

 自分の回復に集中しよう。他人のことは、他人のことだ。他人の問題をなんとかしてあげたいと思うとき、私はAC理論でいう「三つのC」を思い返そう。

 1.私は、その人がそうなった原因ではない(cause)
 2.私は、その人の病的状態をコントロールできない(control)
 3. 私は、その人の病的状態を治せない(cure)

 この3つのCを忘れるとき、私は「自分には人を助ける力がある」という「自力の思い上がり」に陥っている。そして、水の飲みたくない馬を水辺に連れてゆき、無理やり水を飲まそうとする愚行をおかし、自分も相手も傷つくようなことをしてしまう。

 自分の力で、人を助けるという考え方は、私にとっては非常にまちがっている。
 私には、人を救う力はない。凡庸な人力以上のものはない無力なものである。もし、私が人を救ったと見えるような行動をとったとしても、それは私の力ではない。私を通して、私よりもはるかに偉大でおおいなる御意志が働かれたのであって、私のものではない。私は、何も有力なことはできない。

 自分の、自分による、他者のための「力」などはないのだ。
 もし、私の自力に、人を救う力があったら、まずアルコール依存症で死んだ弟を助けられただろう。
 だが、助けられなかった。

 「私には人を救う力がある、私のおかげだ」と思うとき、私は神御自身の功績と栄誉とを、横取りすることになる。名誉と誇りの盗人である。神から盗むのだから、人から盗むよりもはるかに罪が重い。

 だから、私は、3つのCを忘れずに生きていこうと思う。

 たとえば、ある人がいて、その人が気づかないまま死に向かっているとしても、彼が自覚しない限り、私にはどうすることもできない。自覚したくないと思っている相手に、自覚させることはできない。逃げたいと思っている相手に挑ませることはできない。

 ただ、人間というのは、楽をしていては変われない。本気で「変わりたい」と願って行動するときこそ、無痛の無自覚は、痛みとともに自覚となり、逃避の衝動にもうちかって自己との直面が成立する。辛い体験やぎりぎりの切迫した状況に動かされる感情がなければ、人は変わるきっかけを得ないし、進歩しない。

 残念だが、人間はなにか起きないと変われないもののようだ。
 その何かを起こすのは、人ではなく神の御意志だけだ。だから、私は他者の問題には深入りせず、手放して神にあずける。

 人が変えられないことも、神が変えてくださる。そのことを信じよう。
 
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Commented by riko at 2009-06-08 11:41 x
必死で働いている時には忘れています。
でも、やっぱりわたしは脆いです。
些細な気になることで眠れなかったり、相変わらず人間関係が苦手だったりします。(ふー)
少しは進歩したいなと思います。今日よりも明日・・・とまではいかなくても、数年後に、ちょっとはましになったなと感じられる程度でもいいから。(ふー)

ため息つきに寄らせていただきました。(笑)
ちょっと楽になりました。
ありがとう。心炎さん
Commented by 心炎 at 2009-06-09 23:41 x
Rikoさん、必死で生きてらっしゃるんですね。
いくらでも、溜息つきにいらしてくださいね。
Commented at 2009-06-13 23:35 x
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Commented by anna at 2009-06-29 17:09 x
ご無沙汰しています。AAに通っているうちに、両親を許す、そんな言葉じゃない。感謝する。ここまで育ててくれたことへの感謝。自分が初めて子供を育てて実感してます。今は距離感を保ちながらですけど、自分の両親への気持ちが歴然と変わっています。21日の父の日には、自らプレゼントしたいって心から思いました。今、スポーツクラブに通い始めました。最初はヨガでもやろうか、と思っていたのが、目の前でゴルフを見て父とラウンドしたいっていう気持ちがこみ上げてきて今はゴルフに通ってます。プレゼントはゴルフボールでfather's day 裏には父の名前を入れてもらったボールにしました。そして、手紙なんて書いたことなかったのに、一緒にラウンドできるのを楽しみにしています。お体をお大事に。と書きました。書きながら、涙がこぼれてきました。やっと、本当はannaは父が大好きなんだって。もう肩に力を入れなくっていいんだよって自分に言い聞かせてます。過去の出来事は事実だけど、いつまでも、子供の自分ではいけない。終わりは始まりでもある。
Commented by anna at 2009-06-29 17:22 x
これも、AAやACでの、みんなの正直な話や自分の話で感じられたもの。ここまで来るのに39年もかかってしまったけど、これも、神からのプレゼントなんだって、これで、より深い親子関係が築けると信じています。annaは洗礼を受けることに決めました。今までの人生も意味のあるものだと思ってます。こんな感情になれたのも神の力だと信じています。これからは、神の下で何事も受け入れるブレナイ心が欲しい。神に全てをお任せして、人生を歩き始めて行きたいと思っています。今は、とっても、心が平安です。明日はシスターのいる教会でミーティングがあり、参加します。たまには、annaの日記にも遊びに来て下さい。AAやACの会場で会えるのを楽しみにしています。
Commented at 2009-07-04 15:42 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ecdysis at 2009-07-07 09:13
心炎です。だいぶご返事おくれましてすみません。annaさん、お元気そうで何よりです。ゆっくり地道に歩いてくださいね。感謝の念が、痛い思いをさせられた親に湧くというのは素晴らしいですね。洗礼を受けられたということですが、多くの糧が得られますように。
Commented by ecdysis at 2009-07-07 09:14
また、私だけが読める非公開コメントをくださる方々にお礼申し上げます。いつも温かい励ましとお心づかいに感謝申し上げます。
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by ecdysis | 2009-06-05 01:06 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(8)