憎悪の夫婦

 私の生家では、祖父母も父母も、夫婦でいがみあい罵り合い、怒鳴り声や金切り声、喧嘩口論が絶えなかった。
 しかし、私の中で忘れられない「憎悪」を見せたのは、人格障害者の祖母と祖父の関係だった。
 小学校3年ごろまで、私は祖母といっしょのふとんに寝ていたのだが、朝起きると、まず祖母の苦労話がはじまる。「この家を建てるのに、ヤミでつくった酒を一升瓶につめて何本も体に巻きつけ、毎朝3時に起きて何時間も歩いて大きな町へ売りに行った。それで儲けて家と土地を手に入れた」という話が多かった。
 祖父に背中を蹴られて、肋膜炎になって大手術をしなければならなかった話とかも繰り返された。
 事実、祖母の背中いっぱいに、肋膜炎が原因かどうかわからないが、右肩から左の腰上まで、袈裟がけに三十針もの大きな一直線の手術痕があり、よくそれを両手でさすってマッサージをさせられた。
 そのときは、子供だったので、祖母の祖父への恨みがどんなに深いかを知らなかった。

 小学校5年のとき、祖父が倒れた。脳卒中によって半身不随になった。ふとんで寝たきりで、母と祖母による介護が数カ月続いた。もちろん食事は一人で取れず、口に運んでもらわなければならない状態だった。ひどい床ずれが腰の裏側にあったのを、子供ながら痛々しい想いで見つめたのを思い出す。
 そんな中、いつのまにか祖父の顔に、赤黒いかさぶたのようなものが、ついているのに気づいた。
 寝たきりで動けない祖父の鼻や頬や額に、また手の甲などにも黒い血のかたまったかさぶたがいくつかできている。これはいったいなんだろう、寝たきりになると、こういうできものが顔にできるのだろうかと不思議に思っていた。

 そうこうしているうちに祖父が亡くなった。
 そして、私が大学生ぐらいになったとき、母が家族の前で驚くべきことを告白した。
 あの祖父の顔についていた赤黒いかさぶたは、祖母が夫への恨みごとを、呪うように吐きかけながら、無抵抗の祖父の顔を引っ掻いていたのだという。その光景を母が目撃していたのだ。かさぶたは、引っ掻き傷からの出血が原因だった。かなり厚いかさぶただったから、ずいぶん力を入れて真皮がむけるほど食い入らせたものだったとわかる。
 それだけではなく、祖父に温めたミルクを飲ませるときに、祖母は鍋に唾をいれたりもしたという。あるいは、祖父が食べたがった桃の缶詰を、目の前であけて見せて、祖母が祖父の口元まではこんでから、「ほれほれ、食べたいか? でもやらない」と、祖父に食べさせないで自分で食べるという残酷ないやがらせもしていたらしい。
 動けない口も不自由な祖父は、たどたどしい声で、「も・・・もも・・・」といいながら、目で缶詰を示し、「これが食べたいの?」ときいた母に大きくうなずき、食べさせてもらったという。

 祖母のしたことは、あきらかに気のふれた人間の行為であり、あまりにも幼稚ではある。だが、そこまで妻を憎ませ、無抵抗の夫を傷つけて復讐するという挙に出させたものはなんだったのか。そうまでして仕返ししなければならなかったほど、かつて祖父から受けた仕打ちの数々が、あまりにもひどかったからだとしか言いようがない。この一事だけでも、私の生家に流れていた冷たく恐ろしい空気がわかろうものだ。

 良心の呵責も、惻隠の情もない、一女四男ももうけた、かつて夫婦だったものたちの、この結末。
 アルコール依存症者の夫と、その妻のひどい残酷なケースを私は見て育ったのだ。
 妻と夫は、仇敵どうしであり、どちらが家の中で強いかを争う、戦いの相手でしかなかった。
 祖母の妹の思い出話では、祖母も若いころは、そんな人間ではなかったという。縫物の得意な、まめなこざっぱりした人だったという。私の知っている祖母は、太っていて家事もしないで、一日中、ごろごろうろうろして母を罵り続けるだけの、しかも風呂に何日も入らない不潔な人だったから、とても想像がつかない。

 しかし、大叔母の話が本当なら、祖母をそうさせたのは、まちがいなく祖父である。祖母が家事をしないで不潔だったのは、今なら鬱病の症状もあったのだと理解できる。
 私は、そんな祖父の血をひいている自分に、ひややかな絶望を感じる。歯が鳴るような、こみあげる痛ましさとしびれを覚える。

 祖父が酒を飲まなかったら、祖母も、ああはならずに済んだだろうか?
 祖父自身も無惨なら、祖母ももちろん無惨だった。みなが不幸せだった。幸福になれなかった。
 そして、祖母は、祖父の死後12年ほど経ってから、井戸に入って自殺している。
 不幸の極に至ってしまったのである。
 それゆえ、私は自分のことも省みずに、アルコール依存症の夫という存在を、憎まずにはいられない。
 
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by ecdysis | 2010-03-13 00:47 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)