安心が怖い 平安が寒い


 比較的に順調な日々が続いているうちに、私の中でわけのわからない不安が増大していらだってくるのがわかる。
 この順調な時間が、不安なのだ。さしあたって急を要するような大きな問題がなく、自他を巻き込むシビアなトラブルや緊急事態は起こっていない。まずまず平穏だが、そのこと自体が不安なのだ。
 家族の争いやケンカや暴力や破壊が当たり前だったので、それらを連想させる対人的な対立や葛藤、自分の内面での自己卑下、怒り、憎しみ、嫉妬、攻撃、自傷行為などを起こしていないと、火が消えたように寒くさびしく、孤独感を覚えるという「自分」がいる。
 そのことを、はっきり自覚した。
 そういう自分が、病的ACであることを、顔がひきつるような居心地の悪さと、いたたまれなさの内に感じる。あまりに居心地が悪いせいか、実家の父親が電話をかけてきて酔って悪態をつくという悪夢を見た。そうまでして、私はこの平穏さをこわしたいのだろうか。
 だが、これが、当たり前なのだ。今のこの、急場の大きな問題がとりたててない状態こそが「普通の日常」というものなのだ。戦争が当たり前だった子供が、平和が当たり前の状態に置かれたとき、適応不能症を起こすのとまったく同じことが、私の中に起こっている。愛や優しさや温かさ、静けさや称賛や、まわりからの良い評価に囲まれたとき、それらを体験してこなかった、あるいは慣れていない私の中の子供の心は、当惑と恐れといたたまれなささえ感じて、泣きそうになったりするのだ。

 ああ、わかっている。私の中の傷ついた子供が、叫ぶのが聞こえるようだ。
 やっと、外から来る問題という騒音が小さくなったら、今度は私の中の傷ついた子供のトラウマという悲痛な叫びが聞こえてくる。
 その声を、私は聞く。耳を傾けて聞く。しくしく泣いている子供の私の泣き声に耳を傾けて受け容れる。

 母をはじめとした大人たちの虚栄心や世間体の下で、押しつぶされてきた子供の意志を、私は取り戻す。重度のアダルトチャイルドである父の混乱と暴力と恐怖心に迎合してきた自分から脱却する。

 父は父、私は私だ。このごろやっと気づいたことだが、私は父を恥じて生きてきた。恥ずかしい父の子である恥ずかしい人間だと、ずっと自分を卑下し恥じてきた。
 父がどんなに恥ずかしい人間だからといって、私まで恥ずかしい人間ということにはならない。そのことを認めることができなかったのだ。私は恥の子であり、恥親から生まれた恥息子だったのだ。

 だが、それは世間体や見栄による見方だ。母が、父をいつも責めてなじりののしっていた姿が、あまりにも当たり前だったので、私は母の父を見る見方だけを正しいと信じていたのだが、アダルトチャイルドという視点を加えれば、ちがった側面が見えてくる。

 精神科医が、あるとき「アルコール依存症やアダルトチルドレンの根底にはシェイム(恥)の問題がある」といっていたが、それが本当のことであり、まさに核心なのだという気がしてくる。私は、ひとつの核心に迫ってきているのだろうか。

 神よ、この平安に感謝します。どうか、平穏な日常をあるがままに受け容れられますように。平安と喜びを受け容れる心の器が、より大きくなりますように。
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Commented at 2010-03-23 21:31 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ecdysis at 2010-03-26 12:02
非公開コメントの投稿者さま

 内容、了解しました。次回を楽しみにしております。
 お仕事、がんばってください、とはいうものの、あんまり無理はしないようにね。最後の一行に、あなたが、よるべないさびしい孤独な子供時代を、本当に辛い想いで過ごされたというのが感じられました。

「幸せ」や「平和」に慣れていない私たちACは、とんでもない不幸なことに「幸福感」を覚え、「安心感」を感じたりします。そこに気づいて、「適切な幸福感」に慣れていくことが必須ですよね。

ともにACとして、「適切な幸福感」が、公私ともに増えて健康な心になるように祈ってます。
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by ecdysis | 2010-03-23 01:12 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)