愛のようなもの

 性の快楽は、愛に仕えるものであったのに、私はその逆を当たり前と思い込んできたらしい。
 性行為は、愛を表現する手段のひとつでしかないのに、それを唯一にして最大のように過大評価しすぎてきたのだ。
 さらには、誇大に考えるあまり、いつのまにか愛が快楽の手段、理由になってしまっていたのではないか。肉欲の刺激を、愛の証ととりちがえ、やがてはそれに溺れる自分を正当化し、快楽を理由付けるために、愛していると信じたことが多かったのではないか。
 結婚と子作りとに欠かせないと、言い訳し続けてきたのではなかったか。

 その挙げ句、肉欲の快楽に、自分や相手をなぐさめ、安らがせ、救う力さえあると思い込んだのではなかったか。
 だが、肉欲によって、私は救われなかった。性の快楽と刺激によって救済されることはなかった。むしろ、その方向へ行けば行くほど、傷つき苦しんだ。一時の激しい快楽の代償に、その何十倍、何百倍の後遺症を得た。はじめは蜜のように甘いが、ほどなくして、それは、にがよもぎのように容赦ない苦味〜悲嘆と悩乱〜に変じ、何年ものたうちまわったではないか。

 愛のために、特定の相手への相互の親密さの表現のために、性行為をするのはよい。しかし、快楽のために人を好きになるのは、自分や相手を傷つける自虐的あるいは自傷的なふるまいだ。愛のない、あるいは、愛の薄い、または正当化のための肉欲は、自傷行為の一種だろうと感じる。
 本能が私に与えてくれる快楽は、決して否定すべきでない。しかし、それを不適切に用いれば、苦痛になるのは当然なのだ。
 仏教聖典には、釈迦の言葉として「肉欲は、血を塗った枯れた骨をしゃぶる犬のようなものだ」ということが書いてある。

 いまになってわかるが、ACは愛に飢えているから、すぐにそれらしいものにとびついてしまい、依存する。依存するが、依存は愛ではないから、飢えは決して満たされない。満たされないから、もっと飢えて、さらにそれらしいものにとびついてゆく。そして、自分をもっとひどい状態におとしいれてしまう。私の場合、酒、タバコ、占い、ロック音楽、カルト、恋愛などなど、いろんなものに「とびついた」。

 それらの「手近な愛のようなものにすがらずにはいられない」のが、ACの典型的な習性と気づかなかったからだ。
 だが、「愛のようなもの」は、「似たもの」であって「愛」そのものではない。

「わが愛の飢えを満たして下さい」と神に祈ろう。満たされなければ、私はほかの人を愛せない。自分にないものを他者に与えることはできない。
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by ecdysis | 2010-05-08 15:21 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)