もともと普通ではないので

 どれほど「普通」に生きたいと願っても、実現しなかった。
 するわけがない、ということに気付くのに四半世紀もかかってしまった。
 それは、人並み以下という意味の「普通でない」という欠点も、人並み以上という意味での長所も、ともに自分が持っているところから、混乱と錯雑した印象とともに、かなり深刻な自己分裂を繰り返す原因になってきた。

 100%普通の人間はいない、そういう意味での「普通」は「ない」ということに、まず気付かなかった。
 多数派か少数派かという言い方の上で、「多数派=普通」といえる確率は高いが、それが「正しい」とは限らないことにも気付けなかった。100%正しいことが、人間関係の中であるというのも、ただの思い込みだった。欠点や短所、美点や長所をともに持っているのが人間で、完全に好ましい100%素晴らしい人間など、この世にいるわけはないのだ、ということにも気付かなかった。

 世間知らずで無知だったといえば、それまでだが、私のかつて信じていた「普通」は、テレビのホームドラマをモデルにしていた類のもので、ああいう家庭は絶無ではないだろうが、ごくごく限られたケースだということに、若いころは気付かなかった。母自身が、あまりにひどい家の状態の反動のせいか、「ホームドラマのような家庭がいい」と、実際にたびたび口にしていたのだから、親の妄想を真に受けた年月が長かった。

 ドラマはしょせん、ドラマだ。歌謡曲と同じようなもので、そんな歌詞通りの恋愛ストーリーが、そんじょそこらに転がっていはしない。

 きっと、人の生活の「真相」とは、グロテスクで汚いものと崇高で美しいものとの、奇怪な接合という風景が正しいのかもしれない。「普通」とは幻想、ひとつの「共同幻想」だろうと思う。互いに敵意や悪意がないことを証明しあい、「常識」という形式や儀礼をもって「私はここに所属しています。容認されて存在しています」と表明しあう「身分証明書」をもっている状態のことだろう。

 世の中、変わり者は山ほどいる、迷惑なのも素晴らしいのも、というのが、この年になっての感想。

普通とは、幻想だろうと思う。ホームドラマが虚構であるのと同じ程度に。
そうでなければ、アルコール依存症者80万人、予備軍440万人。また毎年の自殺者3万人超なんて現実にはならないはずだ。

「人並み」もまた同じ。学校や会社や地域社会で、「同じようにふるまわねばならない」ストレスは、ACにとっては非常につらいところがある。だが、ポーズだけでも、「同じ中にいる」と思えれば、疎外感は薄くなって生きやすくはなる。しかし、それも程度問題だ。

「普通」も「人並み」も、追求はほどほどにしないと、窮屈でたまらなくなる。「テキトー」でいい。
その「テキトー」が肌でわかるようになれば、もうそれで「普通」への接近は「よし」とした方がいいと、ACなりに私は考えるのだ。

 
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by ecdysis | 2010-07-27 14:19 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)