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ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com


by 心炎

変えられないものを変え続けようとすれば

12ステップ自助グループで、よく唱えられる「平安の祈り」の一節に

「変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えてゆく勇気を。そして二つのものを見分ける賢さを」というのがある。

 では、「変えられないもの」と「変えられるもの」との見分けがつかず、「変えられないこと」を「変えられる」と信じて、変え続けようとすればどうなるか?

 結論は病の進行、自己の心身の病的状態の悪化、そして死だ。
 変えられないものを変え続けようとすれば死にいたる。

 それも、アルコール依存症なら、酒でなにもかも無くしてめちゃめちゃになり、薬物依存症なら、クスリで人生破滅のあげく、という風に、無残かつ悲惨な死に方をする。あるいは本人が死ななくとも、家族や周囲のだれかが死んだり重病に倒れたり心の病を負ったりする。

 どんなアディクションについても、自分の苦しみの原因には「変えられないものごと」を、事実として認めていないという場合が非常に多いのではないかと思う。
 何が自分に変えられないことで、何が自分にとって勇気をもって変えられることか、その両者を見分けられるほど「シラフ」になるのが、まず大前提。だから、酒をやめ、クスリをやめ、依存をやめないと、いつまでたっても良くならない。
 依存対象だったものや行動を手放すことは、恐ろしいことだし、寒くて辛いことだ。ひとによって長短はあるが、万力ではさまれて搾り上げられるような苦しみをある一定期間、味わうことも珍しくない。このブログでも過去の同様の私が味わった経験が書いてある。大げさでもなんでもなく、依存をやめるというのは、いままで来ていた服をぜんぶ脱ぎすて、裸で真冬の夜に立たされたような、寒さ、痛さ、みじめさ、孤独感、そして罪悪感や焦燥感にさいなまれる行為なのだ。
 いままで依存でまぎらわせてきた自分の認知のゆがみが、いっせいに自分のもとに帰ってくるからだ。その時期をやりすごせば、たいていはある時期を境に急速に苦しみが離れて行く。
 
 私もそうだが親の世代から「シラフ」ではなかった家庭で育ったものには、「シラフ」になっても、「見分ける賢さ」はなかなか習得が難しい。
 それは、どこに糸口があるかわからない、もつれきった大きな縫い糸やテグス糸の塊から、その端っこを見出すのにも似て、時間も労力もかかる作業だ。しかし、糸口さえ見つかれば、あとは早い。あきらめなければ、かならず糸口は見つかる。

 おそらく、普通の健康な人々は、特別に祈らなくとも意識しなくとも、健全な成長過程で「見分ける賢さ」を習得しているのだろうと思う。私たちACや依存症者とは違う。
 そうかといって、私も「普通の健康な人たち」に見える人たちが、本当に望ましい「健全さ」の中にいるとは決して思わないし、見かけほど幸福ではないのだということも分かっている。

 大切なのは「健康なものどうしの共感」、「ACどうしの共感」「依存症どうしの共感」であって、それが境を越えて「人間どうしの共感」になれれば素晴らしいが、現実はそこまでは変われないのが通例のようだ。共感の範囲を広げる努力は続けたいが、かならず変えられない壁にぶつかるから、そこが自分の「心理的地平線」だと思うことにしよう。

 家族や友人どうしの共感と連帯意識がほしくて、私は酔うことをみずから選択し続けてきたのだが、酔わなくとも共感や連帯が得られるということが信じられなかったのだ。安心がほしくて、恐怖や不安のない安全さがほしくて、いたわり守ってほしくて、必死にまわりを変えようとしてきた。

 しかし、私が変えたいと願ったもののほとんどは「変えられない」物事だった。
 それを「変えられない」と認識し受け入れるまで、どれほどの時間と労力を要したことか。

 とにかく、私はまだ生きている。変えられないものを変えようとし続けて、あげくに疲弊して人生が崩壊する事態だけは避けたいと願う。
Commented by ケン at 2010-09-16 12:12 x
こんにちは。変えられないものを変え続けようとするというのは、自分の人生そのものだと思いました。そして変えられないものを変え続けようとすれば死にいたるというのは比喩ではないということも身をもって分かりました。今、自助グループを離れひきこもっているのですが、いよいよ精神的に限界を感じていて不安に怯えています。

今回の記事を読んで、ACや依存症の核心部分の一端が見えたような気がしたのですが、改めてあれは嘆くに値する出来事だったんだとか恨むべき親の行為だったんだとか、AC周辺の様々な問題の輪郭がはっきりすると余計に途方に暮れ、今更現実を受け入れて何になると頑なになります。
でもなぜ、自助グループが必要なのか、回復の可能性を持っているかということも、記事から感じました。どの部分がということでもないですが。
Commented by 心炎 at 2010-09-17 02:16 x
ケンさん、お久しぶりです。
私たちACの心をむしばむのは、生への「絶望感」と「疲労」です。「疲労」は、引きこもりやうつ病になり、絶望は孤独感や生きる気力の喪失をもたらします。
 疲労を癒し休息と希望をもつために、自助グループは役に立つと思いますよ。自分の心をどこに向けるかです。生き方の変化は、感じ方の変化となり、それは行動の変化を起こします。行動が変化すれば、人間関係も環境も変わります。
 変化を恐れて引きこもりになっているのかも。変化=恐怖だった過去から抜け出すのは苦労しますが、苦労のしがいはあるはずです。でも、ひきこもっているときは、「苦労」だの「困難」だの「辛い」だの単語すら見るのも聞くのもいやんだよね。「もうなにもかもたくさんだ~」と絶叫してる状態。怒りと恨みと憤りでいっぱいだから。その、怒りと恨みと憤りが、どれだけ自分を損ねているかがわかると回復がうんと進むと思いますが・・・。
 ひとりで煮詰まっているのは精神衛生に良くないですよ。変化はこわくないのだということを感じるためにも、自助グループに出られた方がよいと思います。気分がよくなったら、どこの会場でもいいですから顔を出してみてください。
Commented by ケン at 2010-09-17 12:51 x
ありがとうございます。心炎さんのブログのエントリーは今の独りよがりな自分でも、信じられる、信じたいと思えるもののひとつで、きっと助けられています。さっそく明日、グループへ行ってきます。
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by ecdysis | 2010-09-09 14:30 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(3)