断片化された普遍性、分散する神性

 私の中の少年は、鬱々とした投げやりで捨て鉢な不平と不満を鳴らしてやまない。
 世界はなぜ、かくも不完全なのか。自分をはじめ、なぜこれだけの生老病死の四苦、煩悩と罪悪と不如意に満ちた人生を送らねばならないのか。悲惨と苦患と怒りと憎しみ、不安と恐怖と屈辱が絶え間なく波のように寄せる人生になってしまうのか。
どこかに、純粋な真実、固く結晶化した真理の中心はないのか。この世界に明らかに、普遍な変わらざる美と善の聖なる場所、状況、人間関係はないのかと。

 確固とした聖なる世界の岩盤、真理の大地は、探したけれど見つからなかった。どこにもなかった。そこに行きさえすれば、そこを意識さえすれば、それを念じさえすれば、救済と安らぎと人生の意義を見いだせるような「普遍なる救いの時」「覚醒の喜びの場」は、どこにも見出せなかった。

 そして、見いだせないのも当然だと、最近、感じるようになった。世界も人間も、もともとそのようにできてはいない。真理の中心、普遍性の中央部は存在しないのだ。聖なる美しい永遠の真理の結晶は、この世界にはない。

 いな、厳密にいえばそれは実在する。ただし、世界を圧する見上げるように巨大な結晶や原石の山脈としてではない。世界の真理と真実、神の存在と聖なる法則は、巨大なクリスタルがミクロン単位まで粉砕されて、こまかな水晶の砂となったように存在する。砕かれた普遍の真理のひとつぶひとつぶが、世界中にばらまかれ、種となり、万物という果肉をまとって、現在の姿を得たのだ。

 神と聖なる法則、普遍の真理は、私たちの外に目に見える形であるのではない。それらは、細分化され、断片化され、無数の破片の形で、私たちのひとりひとりの胸の内に、万物の一個一個の内に、聖なる霊の種となって宿っている。

 おそらく、この人生の目的は、各個人の内なる普遍性の種を大きくし増やすことなのだろう。それは、内なる神性の増大と、霊性の深化に他ならない。私たちの心の内に植えつけられた種芋や球根を、どれだけ増やせるか、株分けできるかというのがもっとも大事なことなのだろう。

 そのために必要なのは、「謙虚」の一語につきる。この人生の中で芽を出し葉をのばし、花を咲かせ、内なる根株、穀物の穂を増やすのに必要な絶対条件は「謙虚」だと思う。目に見えない神の光を浴びて霊性が育つためには、「謙虚」という「葉緑体」がなければ、私たちの内なる聖性は光合成ができずに枯れるしかない。

 私たちは「祈り」によって神に向かって葉をのばし、「謙虚」によって体験知を積んで人格向上の光合成をおこない、自らの霊性の栄養をつくり、内なる神の断片を育て増やしてゆく。

 初めから完成された不動の中心を、自分の外の宗教や宗教的人物・団体・宗派などに求めたのは方向違いであったようだ。未完成の真理、未完成の神性を宿しているのが、どうも人間の真相のようである。また、それぞれの人格のうちに播(ま)かれた真理・真実・善性・神性の種を尊重するならば、自分の信じる神や宗教や教義教理のみが「最高」で、ほかは「それ以下」だなどと信じることは、まったくのナンセンスとなるだろう。

「謙虚」という葉緑体をもたずに、自分の外に確固たる「神」「教祖」を見出す人々は、自力で自分の神性を育てることを忘れた寄生植物にほかならない。彼らは、輝ける神という太陽に向いていない隠花植物にほかならない。

 真理真実の実を、わが身、わが人生をもって結び、増やすために必要なのは、エゴを薄く軽くしてゆく、神と世界と人への謙虚を深めようとする姿勢だけだろうと思う。
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by ecdysis | 2010-11-14 02:12 | Trackback | Comments(0)