無力を認めることは古い自分から新しい自分に変わること

 19歳のときからバイブルを読んできた。その間、聖書は文語訳から英語のものまで何冊も買った。

 いまやそれらは赤線や付箋紙でいっぱいだ。にもかかわらず、私はクリスチャンではない。キリストは尊敬するが、教会には新旧ともに魅力を感じない。釈迦は敬愛するが寺院や仏教各派には興味がない。師匠には大いに関心があるが、弟子や信者たちには気持が向かない。私の気質が、もともとそういう偏屈な人間だからだろう。

 だから、アメリカ生まれの自助グループの概念にも、最初から抵抗はなかった。そこに盛り込まれている原理について、どれがキリストの言葉を採用してつくられたものか、すぐにわかるからだ。

 しかし、そのキリストのことばとて、多くが旧約聖書の言葉を題材に、彼の天才的なひらめきが生まれ変わらせたものが多い。新約聖書のキリストの言葉の引用元を求めた場合、彼の言葉の少なくとも三分の一は、旧約聖書の「詩篇」「イザヤ書」に得ることができる。

 そのキリストも重視した「詩篇」「イザヤ書」から、ふだん私が心にとめて糧にしている言葉を、新年にあたって転載したい。底本は「新共同訳聖書」による(新共同訳は、いささか翻訳に不満があるが、いちばん普及しているので、とりあえず採用する)

詩篇39章6節
「(神よ)ご覧ください、与えられたこの生涯は、わずか手の幅ほどのもの。御前(みまえ)には、この人生も無に等しいのです」


(注:手の幅、とは人差し指のはしから小指のはしまでのこと。古代イスラエルでは、それを1単位として「アンマ」と呼ぶ尺度があった。日本の感覚でいえば「一寸=いっすん」といったところ)


詩篇49章13節・21節
「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠(ほふ)られる獣に等しい」
「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい」


(注:栄華とは繁栄のこと。財産・名声など物質的に大変に恵まれた状態。屠られるとは、畜殺されること。ここでいう獣は、人間以外の動物の哺乳類全般。羊や山羊などの家畜が飼われていて、儀式のときや客人のもてなし、冠婚などの定まった時期に、いやおうなしに手足を縛られて畜殺されることをいう。
 人間が死ぬときもしかり。どんなに財産名誉一族に恵まれていたとしても、死は絶対にのがれられない。予期しようとしまいと死期には命が失われる。そして、物質的繁栄を謳歌しているうちは、霊的な成長と覚醒をえることはできない。
 家畜でいうなら、栄養豊かな牧草を腹いっぱいいつも食べられて、まるまると太って子孫の群れがいっぱいいても、時が来れば畜殺されるのである。人の繁栄とはその程度のものであるとの比喩)


詩篇73章21節
「私(詩篇の作者)は心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。私は愚かで知識がなく、あなた(神)に対して獣のようにふるまっていた」


(注:はらわたの裂ける、とは断腸の思い。知識は知恵・英知のこと。ここでいう獣は、けだもの、野獣。
 人間がエゴに生きている間は、神に対してのふるまいは、野獣が人間に対してふるまうのと大差はない。精神態度としてみれば、憎悪、怨恨、欲望、嫉妬、恐怖などにとらわれて、神のさしのべる改心の機会にさえ、敵意を見せて牙を剥いて噛みつこうとする。
 そういう人間は、英知なき野の獣と変わりはない。詩篇の作者は、過去にそういう人間だったことを痛切に後悔している。私も過去の自分を思うと、この章句そのままだったことを思い返さずにはいられない。痛烈な自己の棚卸しである)


イザヤ書66章2節
「わたし(神)が顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしのことばにおののく人」


(注:この言葉の対象となるのは、現代でいえばすべての各種依存症者・アダルトチルドレン・心の病に苦しむ人々になるだろう。ここの「苦しむ」にあたる単語は、英訳聖書ではhumbleと訳され、これは「苦しむ」というのではなく「謙遜な・高ぶらない・卑屈な・自己卑下した・低い・みすぼらしい・劣った」という意味。自己評価の低いACにぴったりではないか。
「霊の砕かれた人」はcontrite in spiritという表現で意味は「罪を深く悔いる心の持ち主」。このspiritはよく知られているように、「霊・霊魂・精神・心・気質・精霊」などさまざまな意味がある。
 ただ、「霊の砕かれた」という表現は、よくできた言い回しだと思う。エゴというネガティブな感情の堆積した岩盤を砕かなければ、自分という意識の底にある良心・神性という地下水脈は湧き出したくても湧き出せないからだ。あるいは、かちかちに固まった泥の土地を砕いて畑にし、水をやって作物の種をまくように、神性の種まきをするということかもしれない。
 自助グループ風にいえば「無力を認めた人」ということになるだろう。「霊が砕かれる」ために、どれほどの苦難や苦痛やみじめさや困窮を味わわねばならないかを思えば、この言葉の重みははかりしれない。恐怖や不安や心の傷から来る自己防衛によって、私たちの心は凍りつき固まっている。それを砕くためにこそ、この生はあるのだろうか)
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by ecdysis | 2011-01-10 03:00 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)