欲しがることがまちがっていたとしたら

 もし、私が強く望んでいることが、神の意志とちがっているしたら、それは決して成就されないか、実現しても長続きもせず終わりをよくしないことは、経験的に知っている。

 ところが、自分の望みに絶望を感じた時、そこで神の意志の何をいわんとされているか、長くわからなかった。ただ、止められているとか、罰されているとか、いろいろ自分勝手な推測がめぐるだけで、本当のところはわからなかったし、いまもわからないことも多い。

 ただ、最近、思いついたのは、「自分にとって必要でないことは、神は実現されない」ということだ。それが、どんなに自分が欲しがり、望んでいることでも、神が「必要なし」とみなしたとしたら、実現されないか実現してもうまくいかない場合が多いのではないかと思うようになった。

「実現しないのを体験することが必要」という「必要」も、神の目で見れば、あるのではなかろうかとも思う。

 自分が望んだことが、本当に必要なのかどうか、AC性が関与していると、判別しにくいことが多い。「神の意志を知る」ということは「親のまちがった意志」に忠実に生きてきてしまった私のような人間には、不可欠な気持ちの向けどころだが、それは簡単にはわからないことの方が多いし、人に説明しがたいことも少くない。
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by ecdysis | 2011-04-13 08:52 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)