生き方を見分ける賢さを得たい

私は50歳になって、いろいろなものを見てきたと思う。

心の美しい人もいたし醜い人もいた。良い人もいたし悪い人もいた。
良心の働きの強い人もいたし、良心の麻痺した人もいた。

心が美しくて貧しい人々もいたが、良心が麻痺していながら成功して有名になっている人たちもいた。
だれもが憧れる生活をしていながら、家族どうしが苦しめあう人々がいた。
家族どうしが仲良くしていても、それが他人に迷惑をかける暮らしで生計を立てていて団結している人たちもいた。

だれからも後ろ指をさされず、神様にほめていただけるような幸せは、どこにあるのだろう。

私は見た。自分や家族が幸せでも、それがほかの人や家族を不幸にしていたら、その報いは子や孫の代に必ずやってくるのを。名声が富が才能が、その人の人格を何も保証しないのを。称賛や名誉はあっても家族に地獄の生活を強いる親や配偶者や兄弟にしかなれない人たちがいるのを。

この世で位人身を極めても、勲章をもらっても、死後に闇に落ちていき、永劫に等しい苦しみを受ける人たちがいることも知った。

私たちが求める、富も地位も名誉も、私たちの魂の幸福を保証しないことを、私は知ってしまった。
この世の快楽に救いを求めてきたのだけれど、人々がほしがる幸福の中にはなかった。

なんということだろう。私の母が、私に願ってきた富も名誉も名声も、自らを救うことがないとは。
肉欲にも救いはなかった。接吻も愛撫も交わりも、ひとときの快楽で苦しみを忘れさせてくれても、私の心を救いはしなかった。

この世の快楽と有頂天にさせるすべては、傷ついた私の心を救わなかった。愚かさを賢さに変えないし、より成長させもしなかった。

ただ、地道な堅実な暮らしの安らかさだけが、私を平穏にしてくれる。
スポットライトなどほしくない。それらは、目をくらませるだけだ。まぶしい栄光は、見た直後にまっくろな残像で、私の目をみえなくする。

この世の成功とひきかえに、自分では知らないうちに、何か恐ろしいものに魂を売ってしまった人たちもいる。彼らこそ、本当に救われない人々というべきだろう。気づいたときには手遅れだ。
神の御目から見て、愚かな著名人となるよりも、賢い無名人であることを選びたい。
その名声も、虚飾の言い換えにすぎず、高慢さでぎらぎらしている人たち、うわべとプライベートに差のありすぎる人たちを、私は知ってしまった。

だからこそ祈る。貧しい無名の人々に、魂の安らぎのあらんことを。見えざる神の守護の手が、その日常を手厚く守りたまわんことを。
トラックバックURL : https://ecdysis.exblog.jp/tb/16532000
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
削除用パスワード
by ecdysis | 2011-06-29 02:34 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)