2011年 10月 03日
個性や性格に「完成」の二文字はない
紙でできた表の上に、ゴシックの活字で印刷された文字の列があり、それはこう読めた。
「自他の理想の人間像の滅却」
「滅却」とは「滅ぼし捨てること」すなわち「すっかりなくしてしまえ」ということだ。
夢で文字化した私の潜在意識がもとめるのは、自分にも他人にも「理想」を求めないことを徹底せよということのようだ。すなわち「完成された人格」「これ以上修行する必要のない完璧な霊性」を、自分にも他人にも「いつかそうなるべきもの」として求め、想定することを、すっかりやめてしまえということだ.
夢から覚めて、頭の中をぐるぐるめぐる言葉があり、脳裏をインスピレーションが走り抜け、それを忘れないように枕元に用意したメモにつづった。
「人格や個性に完成というものはない」「成長とは完全になることではない」「成長は変化にすぎない」「気にする変化は、有益な変化と有害な変化のふたつだけ」「変化は次の変化を促す」「未完成の人格というものは存在しない」
私の「完成された人格」という「理想」は、幻影であり実在しない虚像だと、夢の言葉が教えてくれている。
虚像をもとに、自他を裁いて優劣や高低や善悪を決めつけては、いつまでたっても楽にならない。
そして、夢のあとのインスピレーションは、「それでは私はどこを、何をめざせばいいのか」という疑問に、すぐに答えはやってきた。
「神の意志に、おのれを合わせること」
その「おのれ」は、完全な人格でも成熟した性格でも成長した自己でもない。欠点をもったままの、あるがままの自分でいながら、神に自分を合わせようとし続けること。神に自分を合わせる上で、不都合なことがあれば、それをなくしていくことだけが必要なのだと。
自分の力で、自分の人生を完成させ、完全ならしめることは虚像の理想にすぎない。
完成しなくてよい、完全を求めなくてよい。
すでに完全である神の意識に、自分を合わせることができればよい。
成長したかどうか、より次元が高い人格になったかは、自分で判断する必要はない。
私という個性は変わらない。個性には善悪も完成未完成も成長も関係ない。
自分を一個の個性とみなせば、あるのは変化だけであり、あとは笑ってしまうほどの存在の小ささだ。
このような小さい変わりやすいめまぐるしいものが、「完成」をめざすなど、おこがましいにもほどがあるというものだ。