絶対安心を求めてきたけれど

 完全な安心感を求めてきた。絶対的な安心を与えてくれる人やものや環境を探し求めてきた。
 だが、それらはなかった。この世に少なくとも、永続する完璧な安全はないと思うようになった。

 完全な安全とは、なんだろうか。それは、乳児が母親の胸に身をあずける安らぎだろう。
 幼児が母の背中に体をあずける、その温かくなつかしい安心感だろう。

 このごろやっと明確に気づいた。私は、そういう乳幼児期に体験しているべき感情の満足を、ずっと求め続けてきたのだと。母子のスキンシップに飢え渇いて苦しんできたのだと。 
 同時に、それらの解決が、いままでのようなやり方では不可能だということも、すぐにわかった。考えるまでもない。赤子にもどれるわけがないから。

 私は、どうすればよいのだろう。それら、古いけれども今に続く乳幼児の感情の不満と不足と空虚と寒さを、埋め合わせる何かがあるというのだろうか?

 確たる答えを、今は見いだせない。だが、これまで求めてきたような人間関係では、それらを埋めることができないのはわかっている。誰も私の母にはなれないし、私も乳幼児にもどることはできない。おそらく、どんな人間にも、私の気づいたこの空虚を埋めることはできないだろう。

 砂漠をさまよいながら、オアシスを求め、砂に咲く花を求めてきたつもりが、それは乳幼児期の私の心であったとは、なんたることだろう。まさしく、私は、自分が何を求めてきたのかすら、わかっていなかったのだ。
 飢え渇いていたのは、私の乳幼児の心だった。そこが癒されなければ、私の精神の健康は回復しない。

 無条件に愛されること。無条件に愛すること。そのふたつが成り立つとき、絶対安心感が生まれる。

 だが、私の心はそこからほど遠い。
 乳幼児期に形成された感情の空虚に、寒く不愉快な癇癪が沸き起こる。不機嫌な怒りが底から立ち上る。

 この遠い過去の飢え渇きと、その影響下に苦しんできた今の自分と、どこかで折り合いをつけなければ、この不機嫌さと虚しさを癒すことは無理にちがいない。

 ただ、解決のヒントになりそうな視点はある。ふと思った。以前、ここでも書いたと思うが「幸せになるのに理由はいらない」という見方だ。「理由」とは、言い換えれば「条件」だ。「無条件で幸せになっていい」という自己認識にいたれば、それは「無条件の愛」を自分自身に認めたということになりはすまいか。

「カネがあるから幸せだ」「名声・財産があるから」「成功したから」「愛されているから」「必要とされているから」「業績を上げているから」「家を買ったから」「車を買ったから」「愛するひとと交際できたから」「結婚できたから」「子供ができたから」・・・etc
それらの一般的な「幸福」「満足」は、もちろん大事だ。
だが、それらのほとんどを得られない、私のような乏しい貧しい人間は、「不幸」なのか。
そうだ。「不幸」だと思ってきた。今までは。だから、一般的な「幸せ」を求めて苦しんできた。

しかし、いま思う。ほんとうにそうなのか?理由なく、幸せを感じてはいけないのか? 
今、自分がここにいて、ただ存在して息をしているだけで、それだけで「幸せ」を感じてはいけないのか?
それに「ノー」を言える人間はいないはずだ。

「持っているから幸福、持っていないから不幸」という発想そのものが問題だ。その思いこみを、否定していくことの行く先に、たぶん絶対安全感に近づく道が開けている。
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Commented by anonimasu at 2012-02-17 09:07 x
人間関係や、環境の良さなどでは、完全な安心感は決して得られない。それらに期待すると、それらに翻弄され、ぼろぼろになってしまう。

結局、ハイヤーパワーとつながっているという感覚を味わう時間が、全き安らぎなのだと思う。私は人間関係依存になろうとしている自分がいて、誘惑と日々闘っている。溺れると、貢いだり、その人のことを追い回してしまいそうで怖い。その裏には、炎さんと同じ虚無感があるからだ。

虚無、孤独、孤独は、感じて当たり前だとカウンセリング機関でいわれた。それらをなくす必要はない。ただ、それらを赤ちゃんのように抱っこして、あやし、程々にコントロールすることが、生きるコツなのだとか。
私も孤独を抱えている。そんな自分の心を俯瞰で眺めるもう一人の自分を持つよう心掛けている。で、「今日は孤独度が上がっているな。気を付けなければ。」って自分をモニターしている。
Commented by アノニマス続き at 2012-02-17 09:08 x
心さん、心の癒しを性急に求める必要はない。それは、長い年月のなかで、神が時を定めてその時に、少しずつ与えてくれるものだから。自分の努力では、変えられないものの一つだ。

私もアダルトチルドレン丸出しで人と出会い続けている。当然、ろくな人間関係は築けない。私も良質な人間関係など期待してない。でも、完璧でない人間関係や環境を体験し、年月を重ねるとき、フット向こうから悟りが与えられる。それは、私が人から傷つけられたり、他人のためにエネルギーを割いたりすることを通して得られることもあった。

傷つけられながらも、人に与え続ける。私ができる範囲内で。見返りを期待せず。これが神の御旨のような気がする。それに沿って生きれば、必ず展望は開けてくるはず。
心炎さんもきっとそうですよ。ステップを踏むときには、どうか焦らないでください。
Commented by 心炎 at 2012-02-17 22:39 x
anonimasさん、長文コメントありがとうございます。
たしかに、おっしゃるとおりです。
ただ、わたしは12ステップをやっている人たちのためだけに、このブログをやってはいません。12ステップやその本などをほかの人に勧める気もありません。私は、あなたほど悟りが進んでいないので、「虚無感」のレベルが、「あっていい」と受け入れられるほど楽なわけではありません。
焦っているのではなく、苦しんでいるのです。
どうか、その辺、見守っていただければと思います。
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by ecdysis | 2012-02-17 05:17 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(3)