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どうして相手や他者を変えようとしてはいけないのか

 今まで、よくAC仲間の間で「他人を変えようとしてはいけない。変えられるものではないから」という説明をきいてきた。私も、体験的に、他者を変えようとすると、結果はいつもよくないので、そういうコントロール欲求が強くならないように注意している。

 しかし、どうして他者を変えようとすることがうまくいかないのか、なぜ他人を変えることができないのか、そのメカニズムについては、経験的なこと以外は表現できないできた。単に、他人に対して、自分は無力だからという説明でもわかるけれども、いまひとつすっきりしないところがあった。

 今日、ふとその理由に思いいたった。なぜ、他者をコントロールしようとするのがうまくいかないのか。
 自分が過去、相手を変えようとして、さんざん無益な努力を重ねて敗れた経験を思い起こしてみた。

 すると、単純な事実に気づいて、はっとさせられた。
 相手を変えようと躍起となっていた頃の私は、「相手を変えよう」とするばかりで、「自分を変えよう」とはしなかった。無意識のうちに「自分は変わる必要がない」「自分に変えるべきところはない」という「大前提」のもとに、相手が変わることだけを願っていたのだ。

 こうして書いてみると、思いあがった、上から目線の姿勢だとわかる。
 この「変える」「変わる」を「成長させる」「成長する」に置き換えれば、もっとはっきりする。
「相手を成長させよう」と望むばかりで、「私は今の段階から成長しなくてよい」と、暗黙のうちに決めつけていた。

 そこには、「共に変わる」「共に成長する」という共感と当事者意識はない。結局、より成長していると思い込んでいる者が、相手にだけ変わることを強いるのだから、相手からの反発は必至だし、うまくいくわけがなかったのだ。まして、相手より成長しているというのは、本人の思い込みで証明不可能なことなのに、傲慢さがそういう冷静ささえ奪っていた。

 そして、共感と当事者意識の欠落したところには、孤独しかない。相手を変えようとする限り、「わかってくれない」「気づいてくれない」と、落胆と嘆きと憤りと孤独しかなかった。

 そして、要は、私が希望しようがするまいが、変わるべきときがくれば、相手は勝手に変わっていくし、私がその変化に関与せねばならない理由は何もない。私が変えるのではなく、神様とその人自身が変えるのだと思えば、無駄な努力はしないですむ。

 人を導き監督するのは、人を超えた存在だと思う。だから、相手を変えるのは、その大いなる意志だけがなしえるわざだ。人間が同じことをやろうとするのは、身の程知らずな越権行為にほかならない。

 人でありながら、神の仕事をしようとする越権行為なら、当然うまくいくわけがなかったのだ。
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by ecdysis | 2012-02-20 02:23 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)