自分のために生きるということ
2012年 04月 28日
自己犠牲は尊いし、親孝行も美しい。
しかし、それは「自分のために健全に生きる」ことができている家族の中で育ったならば、という前提があるのを見落とすと、ただの規則になってしまう。
自己犠牲とは、家族や他の人の可能な限りの「健康な犠牲心」「無償の情愛」をちゃんと受け取れて育った人にして可能なこと。親孝行とは、親に愛されて見守られて「子への孝養」をちゃんとやってもらえた人にしてできること。私はそう考えている。
ACは、だから自己犠牲や親孝行を健康な人たちと同じようにしなければならないという義務感を持つ必要はない。回復していけば、いつかできるだろうぐらいに考え、当面は「健康な自己中心的な生活」をしっかり自分のものにすることが大事だと思っている。
無償の愛は、人から(あるいは神から)無償の愛を、まずもらわなければ(感じなければ)、他者に与えることは不可能だと思う。
親やまわりの人たちの不健康さために、不健康な自己犠牲心を持ってしまった私たちは、まず失われた自分のための感覚を取り戻す必要がある。自分を生かすよりも、自分を殺していけにえにする道を選ばされたのだから、それを選択しなおさなければ楽にはならない。
自分を生かすこと。自分を認めること。自分がほしいものをほしいといい、好きなものを好きといい、いらないものはいらないといい、嫌いなものは嫌いと表現して行動すること。不健康な自己犠牲心は、愛でも慈悲でもなく、ただの不健康な自傷に慣れた錯覚なのだと自覚すること。
自分を生かすこと。自分のために生きること。不完全な自分を受け入れて、この不完全な世界を容認すること。 「ふつうの人の喜怒哀楽と同じ喜怒哀楽を自分も感じて生きる」。それができてこそ、初めて人を生かし、人のためにも生きられるようになると、私は信じている。
「人間とはこんなもんだけど、自分もみんなも、それなりに頑張って生きてるよ」と温かい共感の心で見られるようになることが回復のひとつの証と信じる。
しかし、それは「自分のために健全に生きる」ことができている家族の中で育ったならば、という前提があるのを見落とすと、ただの規則になってしまう。
自己犠牲とは、家族や他の人の可能な限りの「健康な犠牲心」「無償の情愛」をちゃんと受け取れて育った人にして可能なこと。親孝行とは、親に愛されて見守られて「子への孝養」をちゃんとやってもらえた人にしてできること。私はそう考えている。
ACは、だから自己犠牲や親孝行を健康な人たちと同じようにしなければならないという義務感を持つ必要はない。回復していけば、いつかできるだろうぐらいに考え、当面は「健康な自己中心的な生活」をしっかり自分のものにすることが大事だと思っている。
無償の愛は、人から(あるいは神から)無償の愛を、まずもらわなければ(感じなければ)、他者に与えることは不可能だと思う。
親やまわりの人たちの不健康さために、不健康な自己犠牲心を持ってしまった私たちは、まず失われた自分のための感覚を取り戻す必要がある。自分を生かすよりも、自分を殺していけにえにする道を選ばされたのだから、それを選択しなおさなければ楽にはならない。
自分を生かすこと。自分を認めること。自分がほしいものをほしいといい、好きなものを好きといい、いらないものはいらないといい、嫌いなものは嫌いと表現して行動すること。不健康な自己犠牲心は、愛でも慈悲でもなく、ただの不健康な自傷に慣れた錯覚なのだと自覚すること。
自分を生かすこと。自分のために生きること。不完全な自分を受け入れて、この不完全な世界を容認すること。 「ふつうの人の喜怒哀楽と同じ喜怒哀楽を自分も感じて生きる」。それができてこそ、初めて人を生かし、人のためにも生きられるようになると、私は信じている。
「人間とはこんなもんだけど、自分もみんなも、それなりに頑張って生きてるよ」と温かい共感の心で見られるようになることが回復のひとつの証と信じる。
by ecdysis
| 2012-04-28 22:56
| アダルトチルドレン・依存症
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