経験が感覚を育てているということ

 私はACなので、相手が自覚していないACでも、すぐにそれとわかる。自分と同じような共通の問題を持つ自覚しているACの人たちともよく会っているから、経験上もわかるのだ。

 これはAC話題とは、少しちがうが、カルトや怪しげなセミナーやエセ・スピリチュアルにひっかかるACの人も多いだろうから、あえて気づいたことを書こうと思う。

 私は、以前から神道を信じているが、私などよりも学識も研鑽も積んでいる専門家といっていい人たちが、意外な態度をとり続けるケースが多いのを不思議に思ってきた。

 それは、彼らが、神道を標榜するカルト団体や、いわゆる「トンデモ本」とか「偽書」などに賛意を示し、あたかもそれに推奨してしかるべき理由があるというようなことを、本にかいたり講演したりネットにアップしていたりする。

 私などは、神道がいくらおおらかで、相手を否定しないとはいっても、嘘偽りや捏造された情報の発信はいけないし、真正の(健全な)道に触れる機会を妨害するようなものは、批判され抑止されてしかるべきだと思っている。少なくとも、無視してとりあげない、という普通の態度をとるのが妥当と考える。

 ところが、前述した諸先輩の人たちは、どうもそれがおわかりにならない。なぜだろう?私よりも修行を積んで専門分野に通暁した方々が、なぜこの教団、この書籍、この教えのいかがわしさ、うさんくささがわからないのだろうかと、ことあるごとに首をひねってきた。

 だが、今日わかった。私にわかることが、なぜ彼らにはわからないのか。見えたような気がする。

 それは、私が二十歳のころから、カルト教団にひっかかって苦しみ、性格改造セミナーやら、詐欺師やら、だまされて死ぬほど苦しむ経験をしてきたからこそ、わかることなのだと。それは、自殺を本気で考えたり、アルコール依存症が進行したり、うつ病になったりする原因にまでなった過酷な経験だった。

 私が首をひねる諸先輩方は、そういう体験をしていないので、見抜けずにだまされてしまうのだ。
 うわっつらの教義や教理やそれっぽい粉飾に欺かれてしまうのは、そういう欺きの手管にひっかかって痛い目に会っていないからだと。私が生まれて初めてカルトや詐欺師にひっかかったときのように、そちら方面の「悪」について無知か、あるいは実害をこうむったことがおありでないからだとわかった。

 カルト地獄、だまされ地獄をさまよう、ほんとに死ぬほどつらい経験を長い間してきて、その果てにやっと神道にたどりついた私だからこそ見抜けることもあるのだなあと、妙にしみじみした気持ちになってしまった。

 そうか、どれほど悲惨な辛い経験でも、あとで役に立つということが、本当にあるんだなあ。
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Commented by 笑むユロ at 2012-06-27 17:24 x
こんにちは^^
わたしは八百万神という言葉が好きです。
いろんなところに神様がいる。
森や樹、川や湖や土や山に。
そして、台所やトイレにも^^。
自然や暮らしの中の神様と共存して生きる。
そんな昔の人たちの考え方が大好き^^。
Commented by 心炎 at 2012-06-29 00:17 x
ユロさん、こんばんは。ようこそいらっしゃいました。かんげいいたしますよ。これからもよろしくです。遊びにきてくださいね。

話は変わりますが、現代では、自分の家に神棚を置かない核家族の家も多くなったようですが、私はマンションであれ、アパートであれ、独身であれ「一世帯」である「家」に「神棚」がないというのは、とても信じられません。それだけで、神様の御守護にもれるのではないかと、恐ろしくなります。

 それというのも、私は実家の家族と離れ、神棚を自分の部屋に設置するようになってから、飲酒の習慣が止まったからです。日本人としての伝統に立ち返るというのは、とても大事なことであると痛感しています。

 私のアルコール依存症の父や祖父は、無神論者なので、彼らのようにはなりたくないから、神様を崇敬するようにしているというところもありますけど。
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by ecdysis | 2012-06-11 01:37 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)