途方もない発見~幼児の私には母親が「神」だった1

 どこから書けばいいのか。

 熾烈な、しかし、実現不能な「結婚願望」「理想の家庭願望」にまつわる自分の執着と葛藤について、今夜、突然に「解決の糸口」が与えられた。

 数年前、自助会の場で、この「理想の家庭願望」について、自分の中で大きな展開があった。
 それまで自分の結婚や家庭についての願望と理想は絶対に正しい、だれにも否定できない当然の要求であり目標であり、だれにも文句のつけようのない正当なものだ、神様でさえ否定できないはずだ、と私はかたくなに信じていた。ところが、その信じていたことを、いつまでも実現できない自分に失望し、その信念を与えるもととなった母への罪悪感によって、気分変調性障害(中程度のうつ病)になったほどだ。

 その想いを、ひとことでいえば、以下のようになる。
「私は正しいはずだ。私の家庭願望は正しいはずだ。当然の権利だ。まちがっているはずがない」
 もちろん、今にして思えば、そのかたくなさに、いささか自分自身が辟易しているところもあった。実はひそかに、思いこみの強さをはずせるものならはずしたいと思うこともあった。だが、自分の力ではどうにもならなかった。

 ところが、自助会に参加中に、その信念と願望の正しさをあくまでも主張する私の胸奥から、ある日、ひとつの想いが大きな泡のようにわいて、いきなりはじけた。それは、予想もしなかったもうひとりの自分の声となって胸に響いた。
「では、おまえは、神よりも正しいというのか」
 愕然とした。今まで「この願望と欲求は正しいはずだ」と信じ切ってきた自分に、自分の中から「異議申し立て」の声があがったのだ。しかも、決定的な言葉で。
 私は虚をつかれて、座っている椅子から脱力のあまりずり落ちそうになった。

 私は呆然として思わずにはいられなかった。
「いくらなんでも、神よりも、正しいとはいえない」

 私にとっての「家庭願望」は、そのときから「絶対のもの」ではなくなったし「絶対の正義」でもなくなった。「なにがなんでも実現せねばならない義務」でもなくなった。

 何よりも「自分は絶対に正しい」という思いこみ、私が名付けた「私は正しい病」に気付いた瞬間だった。家庭願望のみならず、ほかにも私が「絶対に正しい」と思い込んでいる、過去現在の多くの思い込みについて、「では、その正しさは、神様より正しいのか」という自問が続いた。

 それで、自分のエゴが相当に縮小して、それ以来、攻撃性が減少していった。

 むろん、あとで「私は正しい病」は、アルコール依存症者の典型的な症状のひとつだとわかって、ひどく合点がいった。そして、アルコール依存症に関する限り、「私は正しい病」から抜け出せているかどうかが、回復が進んでいるかどうかの基準のひとつになるということがわかった。

 そういう数年前のできごとを経ても、なお私の非現実的なまでに求めずにはいられない「家庭願望」について、ふたたび、もう一人の私の声が虚をつく形でささやいた。

「母と神と、どちらが偉いのだ?」

 私に家庭願望を持たせた「母」と、それとは違う道を歩ませてきた「神」とどちらに従うのか、という問いかけだ。

 さらに、この「どちらが偉い?」という問いにこめられた根源的な設問は、こういうことだ。

「おまえにとって、母が神なのか。それとも本当の神が神なのか」

 これは、私のインナーチャイルドとその影響下にある私自身にとって、ものすごく衝撃的な問いかけなのだ。私の欲求、願望、信仰にまつわる根本的な事柄への、決定的な展開を促すものであることはまちがいない。

 私と母の関係性の歴史に関し、ひとつの大きな締めくくりと、それこそ正しい認識を受け入れて、より楽になるときが訪れたようだ。(続く)
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by ecdysis | 2012-10-14 02:47 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)