貧しきものと豊かなるもの

 人生50年も過ぎると、いろんなことがみえてくる。若いころの盲目から、少しずつ精神的なあかりがぼんやりと感じられて、今まで見えなかったものが視野に映りだす。

 私の父母や祖父母は、貧困を憎み嫌い、この世で最も怖いことは「貧乏であること」だと信じていた。
 これは父方も母方も共通している。世間一般でもそうだろう。

 しかし、貧乏への対処法が違っていた。父方は「カネさえあれば、財産さえあれば、教育も道徳も、世間の評判もへったくれもない。我が家さえたらふく食えればそれでいい」という拝金主義的な考え方であったし、母方は「貧乏でもゆずれないところはある。堅実に働いて、世間に恥をかかぬようにしながら、少しずつ貧しさから抜けていくべき」と考えていたようだ。そこには「武士はくわねど高楊枝」ともいえるような、いささか虚栄や名誉心じみたものさえあったように感じる。

 両者の間に生まれた私は、これまで貧しい期間が大半で、今でも家や自動車が買えるレベルのサラリーマン生活から見れば、決して豊かとはいえない。

 しかし、私は自分の父方の祖父母が、隣近所や親戚から嫌われながらカネをためて家と土地を手に入れたが、祖父はアルコール依存症になり、祖母は人格障害者となり晩年に自殺したのを体験した。そして、ACとなった父が、自分で興した会社の経営を放棄し、祖父母が手に入れた家屋敷を人に取られるのを経験した。

 さらにいろいろな事例で、私は家財産や名誉や才能に恵まれた人たちが、人格的にはバランスを欠いて、道徳的に、霊的にまちがったりゆがんだりしている精神生活を送っているのを見た。相当に著名な人間であっても、ほとんど奇蹟的ともいえる量的にすばらしい業績を上げた人たちが、実は一般常識や徳性において見識を欠いて、あるいは自分の業績に誇って他をないがしろにするのを見た。それは、身近の例もあるし、報道などで見られる通り、芸能人やスポーツ選手や企業家をはじめとする、一芸にひいでた著名人たちが、極端な場合は犯罪に走り、そうでなくとも高慢な言動や非常識な態度で世間の顰蹙を買った事例も少なくないのを知った。

 貧困は困るが、では物質的に豊かでありさえすればいいのか、財産や世間の評判や名声や業績が高ければ、それでいいのかといえば、どうもそうではないと思える。
 人生にとって大事なのは、そういうものではないのではないか。いな、むしろ、それらは人にもよるが、大方の場合、ある一定以上の財産や名声や業績・才能、つまり「私的な物質的豊かさ」の保有は、「人生の罠の一種」ではないのかとさえ感じられる。

「幸いなるかな貧しきもの」とキリストはいった。
 この「山上の垂訓」を読むたびに、金持ちになったことのない私は「貧乏のどこが幸せか」と反発を感じたりもした。
 しかし、「高慢こそ悪徳の根源」と、少しずつ感じられるようになってきた最近では、キリストの言葉が本当なのではないかと感じるときがある。

 もし、ある人が富や名声や才覚や容姿に恵まれていたとしても、それが一時的に一世を風靡するほどの信じられないような業績を生んだとしても、その人がそれらの富んだものによって高慢になったとしたら、それは最も不幸なことだと言わざるをえない。
 高慢・天狗になることほど恐ろしいことはない。自分の私的な富や名声や才覚や容姿を理由に、それらの要素が自分より劣っている人たちをさげすみ、あなどり、思いあがって無慈悲なふるまいをすれば、彼は必ず自分や子孫が報いを受けることになるからだ。

 それらの長期間にわたる「高慢の報い」という、世代を越えた「不幸」「わざわい」を受ける機会がない、という意味では、確かに多くの意味で貧しい人たちは「幸福である」といわざるをえない。
 私たちのACの家系の歴史の中で、どこかの先祖の世代で、一時的に、あるいは現在も私的財産や名声や容姿にめぐまれ、地元の名士や資産家といわれたことがある、あるいは現在もそうであるというケースは非常に多いのではないかと思われる。

 それらの高慢の報いは、家系の断絶であり、私的財産の転覆であり、心を病む子孫の発現だったりする。
 私自身も、それらの子孫の一人である。

 キリストはまた「わざわいなるかな、いま富んでいるもの」といったし「富と神と両方に仕えることはできない」ともいった。これは「富」を「高慢」と置き換え、「貧しさ」を「謙虚」と言い換えれば、よくわかる話だろう。
 私的なものにおいて「富んでいる」者が、「貧しいものであるかのように真実に謙虚である」ことが、きわめて困難であることを、キリストの言葉に見出すことができる。
 その困難さに比べれば「ラクダが針の穴を通る方が、まだたやすい」と断言したほどだから、99%以上の割合で、資産家や著名人が真の意味で「謙虚」になることはできないということなのだろう。

 人間は弱い。かくもたやすく高慢になる。この世の富という罠にひっかかって天狗になり、貧しい同胞をあなどりさげすみ、やがてわが身と子孫に報いを招来してしまう。

 謙虚さと慈悲心に富むこと、寛大さと忍耐に富むことこそ、本当の「富」であり、キリストのいった「天に宝を積む」ことなのだと思える。また、無償の奉仕など、私的な欲得を離れた善行の継続もまた、謙虚さを培う大切な行為だと思えてならない。無償の行為を、偽善と批判することはたやすいが、ではそういう批判者が、それ以上の善行を自ら為しているかといえば、そうではないことがほとんどであろう。自らはやらないで批判ばかりする安易な態度もまた高慢さのひとつだろうから。

 私はクリスチャンではないが、なんだかそういう風に感じる。
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by ecdysis | 2012-11-05 02:16 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)