かつて愛というものがあると知ったとき

 いまから30年前に、新約聖書のキリストやパウロの言葉に、「愛」という感情が人間にはあって、どうやらそれなしでは人間は生きてはいけないらしいと知った。また、その感情が人間の幸福にきわめて重大不可欠の要素であることも知った。

 しかし、「愛」の存在についての知識は得ても、私はそれを実感したことがなかった。
 愛することも、愛されることも、いとおしむことも、知らなかった。 
 とても大事なことだというのはわかるのに、それを実感できない自分が、たまらなくもどかしかった。

 当時の私が認識できたのは、自分が愛することをしてこなかったということと、愛されていることにもまったく気づかないできたということだった。
 おおいなる存在に生かされているということは感じられたから、「愛される」ことについては少しだけでも実感できて心があたたかくなった。

 だが、「愛する」ことを実感するのはきわめて困難だった。愛といえば恋愛しか知らず、しかもそれは幻想や女性依存に傾いたものだったから、とうてい健康な感情とはいえなかった。愛とは快楽なのだという解釈しかなかった。

「愛する」ことは、私にとっては感覚のまったく麻痺した手で、何かあたたかいものをつかむのに似ていた。目でみて何かをつかんでさわっているのがわかるのに、手には何も感じられないのと同じだった。あるいは、とても栄養のあるおいしい食べ物を口に入れたのに、嗅覚も味覚も麻痺しているので、ものを口にいれて噛んでいながらまったくおいしさも食べ物らしさも感じられずにいるのと似ていた。

 どんなに善行をしても愛がなければ意味がないということを、パウロは書いたが、その肝心の「愛」がわからなかった。「ローマ人への手紙」に愛の諸条件が書いてあるが、それを実行すればわかるだろうかと試みたが、数年苦しみぬいて、結局わからずじまいだった。

 この年になって、やっと少しだけ「愛」の一部が表現できるかなと思えるようになってきた。

 それは、
 「愛」は見返りを求めず「無償」でなければならないということ。
 「愛」は目に見えないものだということ。
 「愛」は正直さや思いやりや優しさや平和を好む心であること。
 「愛」は自他の善のために忍耐する心であること。
 「愛」はそれを実感したいという人には、努力の果てに、ある日、差出人不明の手紙が送られてきて、開封したら途方もなく貴重な宝石が入っていて「あなたのものです」というメッセージを見出すようなもの。

 そして、何よりも「愛を求めている自分」を自覚することが、「愛」のはじまりであるということ。
「愛されたい」と願う自分を受け入れること。「愛に飢えている自分」を認めること。
 神様に「私を愛してください」と祈ること。素直に求めれば、必ず与えられる。
「私のようなものが愛される資格があるだろうか」と思わないように。
 愛される資格のないものは存在することはできないのだから。
 ここに私やあなたが存在していること自体が「愛されている」証拠なのだから。
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by ecdysis | 2013-01-21 01:13 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)