「生きる力」を「有力感」に求めるのではなく

 ACの「生きる力」は、それが病的だと自覚できないうちは、たいてい強迫的なものであり、衝動的な現れ方であり、駆り立てる目標や目的によって得られることが多い。

 私もかつてはそうだったし、そういうありようが病的なのだと自覚したのは、ついこの数年の間のことだ。
 30歳代のはじめにカルト教祖に裏切られて失望と落胆に陥り、アルコール依存を深め、いまなら希死念慮の強いうつ病とわかる状態を発症していた。

 そのとき、私が自分を超える大きな力に願ったものは「再び自分を駆り立てる力」だった。「活力」がほしかった。前に進んで歩いてゆく「力」をくださいと願った。

 しかし、その求め方は、ゆだねることもせず、全面的に依頼するのでもなく、「力」さえいただければ、あとは自分でなんとかできるという気持ちだったから、中途半端なものだった。

 自分が「無力」であることを認めることなど、想像もできなかった。
「無力」=「死」と思っていたからだ。「有力であること」=「生」であったのだから、当然その反対の事柄は「死」以外にはない。死にたくなるのも当たりまえで、「無力=生きる資格の喪失」にほかならなかった。

「なにもない無力な自分でも生きていていいのだ」と思えるようになるまでは、「無力の否認=有力感の維持と獲得」に、どれだけ心を傾けてきたかわからない。私が目に見えない存在に願った「力」とは、いま思えば正しくは「有力感」であり、「自分は力がある」という感覚を復活させてほしいということだった。

 だから、私が求めたのは厳密な「力・気力・生き甲斐」ではなく、「無力感を打ち消す有力感」だったのだ。
 有力感を病的に求める心は、根底に無力感があるので、いつでも無力と有力が対になっていて、どこまでいっても「無力」の翳りを払拭できない。

 無力な自分、非力な自分を受け入れ、そういう自分でも生かされているということがわかれば、無力感は癒される。私は、カルト教祖に依存することで「有力感」を得ていたので、それがダメになったとき、もともと持っていた無力感とうつ病が表に現れ出したのだとわかる。

 しかし、30歳の頃の私には、そこまで洞察することもできず、ただただ苦しみ嘆き、死にたいと思うばかりだった。「なにもない自分」など、あってはならなかった。無力な自分だったら、この世、この社会でまともに生きて家庭を持つなど不可能と信じていたから、認めるわけにはいかなかったのだ。

 しかし、いまは自分が有力であることを望む気持ちは30歳の頃よりはずっと弱い。
 自分の有力感よりも、目に見えない大いなる意志にかなうように生きたいと思うようになってきているからだ。

 日常的にささいなことで動揺し、へこたれ、ひがんだり、うらやんだり、おそれたり、ちいさなことで怒りと不寛容さを発する私が、どうして「自分の意志」「自分の力」をあてにできるであろうか。

 そういった小さな「人間らしさ」に動かされない、それらをはるかに超越した「大いなる意志」に自己の人生の主権を明け渡すのが肝心だ。そうして自らの意志と生き方を、自分を超えた大きな力に追従させていく方が、はるかに確実で安全な生き方だと私は信じている。
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Commented by マープル at 2013-05-09 23:45 x
はじめまして。
〈「生きる力」は駆り立てる目標や目的によって得られる〉というのが、とても的確に私の状態を表現されていたのでコメントしました。

その、目標も目的も無くした今、完全に昔と同じ、憂鬱を抱えて過ごしています。〈ただ、生きる〉ということが出来ないんです…。
Commented by 心炎 at 2013-05-11 01:49 x
マープルさん、はじめまして。共感していただいたようでうれしいです。その「何もない自分」を肯定できますように。「あるがままの自分」に近づいていかれることを、同じACとして願っております。
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by ecdysis | 2013-02-21 02:09 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)