否定し抹消するのではなく、変えるのだということ
2013年 02月 25日
自分を変えるとはよくいうものの、私はその「変化」を、「欠点やよくないところを消さないと変えられない」と思ってきた。
しかし、ふと気付いたのは、「過去の自分という人格や自分の一部である欠点を消す」という行為は、肉体の患部を切除するというような作業とちがい、できないし、やったとしたら大きな副作用があるのではないかということだ。
それらは、消せないし、やみくもに消そうとしてはならないものだ。
できることは、まさに文字通り「変えること」。欠点を欠点でない性質に変えること。「消える」というのは「変化の結果として以前の状態が現れなくなった」ということであって、「消してから変える」というものではなかったのだ。
私たちの心は、たとえそれがどんな欠点や罪悪の源であったとしても、物のように、消したり、取り除いたり、無視したり、捨てたりはできないものなのだ。精神に対するそれらの否定の言葉は、あくまで「たとえ」であり「変化の結果」を意味するもので、変化の原因や過程にそういうことが行われるということではない。
私たちの心についてできることは「変わること」だけだ。否定も抹消もしなくてよい。
目に見えない大きな力とその意志に向かって「変わりたいので変えてください」と願えば、その真剣さの度合いに応じて、かならず変化がもたらされると私は信じている。
しかし、ふと気付いたのは、「過去の自分という人格や自分の一部である欠点を消す」という行為は、肉体の患部を切除するというような作業とちがい、できないし、やったとしたら大きな副作用があるのではないかということだ。
それらは、消せないし、やみくもに消そうとしてはならないものだ。
できることは、まさに文字通り「変えること」。欠点を欠点でない性質に変えること。「消える」というのは「変化の結果として以前の状態が現れなくなった」ということであって、「消してから変える」というものではなかったのだ。
私たちの心は、たとえそれがどんな欠点や罪悪の源であったとしても、物のように、消したり、取り除いたり、無視したり、捨てたりはできないものなのだ。精神に対するそれらの否定の言葉は、あくまで「たとえ」であり「変化の結果」を意味するもので、変化の原因や過程にそういうことが行われるということではない。
私たちの心についてできることは「変わること」だけだ。否定も抹消もしなくてよい。
目に見えない大きな力とその意志に向かって「変わりたいので変えてください」と願えば、その真剣さの度合いに応じて、かならず変化がもたらされると私は信じている。
by ecdysis
| 2013-02-25 15:08
| アダルトチルドレン・依存症
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