哀しき夢

 育った家庭のひどさに絶望はしたけれど、情緒的に飢えた心は消えなくて、結局、余計に飢えを深める心を持ち続けてきたのだと気付いた。
 ふつうの人々が幸福だと感じることを、すべて自分のものにして、すべて経験しなければ気が済まない気持が、私の生き方のバックグラウンドになってきたと思う。

 自分に欠けている健康な経験のすべてを体験できれば、この飢えは満たされると信じた。また、そうでなければならないと信じた。あきらめや、手遅れを自覚することなど、あってはならなかった。
 そう、わたしはあきらめなかった。頑固に「健康な経験の獲得」にしがみついてきた。

 しかし、事実は獲得できなかったことの方がずっと多い。というよりも、「健康な経験の獲得」に執着すればするほど、事態は悪化していたように思う。「手放し」て、大いなる意志におまかせする事以外には、楽になる有効な方法が、私には見いだせなかった。

 実に私の「健康な体験」への執着は、実現不可能な欲張りな妄執といってよいものだ。
 自分のコンプレックスの深さと強さに比例した、誇大妄想というほかないものだ。
 健康なもの、すぐれたものを、すべて自分のものにするという欲望だけが、私の奥でうごめいている。
 それらは、ことごとくが「自力で得る」ことを必須とし、「与えられる」ことを屈辱とする。
 与えられては意味がなく、自力で獲得してこそ、「過去の埋め合わせになる」と信じてきた。
 言い換えれば「与えられることを拒否し、自力でできる」と主張してきたも同然。「自分でできるから、いらない。手をださないでくれ」と。
 それはコンプレックスのなせるわざだ。
「自分はダメな家で育ったダメな人間ではない。その証拠に、あれもこれもそれもぜんぶ自力で獲得した。普通の育ち方をした人たちにはできないことをすべて実現した」
そういいたくて、なんでも自力で解決しようとしたのだ。
 
 だが、それは妄想だった。前提に深刻な劣等感を持つ、むりやりな強がりと意地っぱりと負けず嫌いの追いつめられた信念だった。
 しかし、それとて根底には「馬鹿にされること」「嘲られること」への恐怖がある。
 そうだ。「さげすまれないように」「ばかにされないように」「あざわらわれないように」というのが、私の生き方の親世代から受け継いだバックボーンだったのだ。
 それは、実際にばかにされさげすまれた祖父の代にさかのぼる生家の病根でもある。その病根を取り除く使命を、母方の祖父が母に課し、母がそれを私に課した。
 周囲のさげすみや嘲笑の声への恐れと、「今にみていろ」という怒りと強がりの陰気な炎が、私の心にも知らない間に燃え移っていたのだ。
 その妄念の炎を、消そうではないか。意地をはるのではなく、「それでもいいじゃないか」と開き直る「強さ」こそ、私には必要だ。

 必要なものは、神が与えてくださる。獲得できたものは、実は自力の結果ではなく与えられたもの。
 獲得できなかったものは、与えられなかったもの。与えられなかったものは、神が私に必要なしとみなされた結果である。
 感情的には受け入れがたかったり、妄念との葛藤があったりするが、どうもそれが真実のようである。
トラックバックURL : https://ecdysis.exblog.jp/tb/20515938
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
削除用パスワード
by ecdysis | 2013-07-18 03:30 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)