陶酔と快楽とを幸せの証拠と信じるまちがい
2013年 12月 16日
今年に入ってはっきりわかったことがある。
それは、陶酔感や高揚感や快楽の絶頂を、「幸福である証拠」と信じて追い求めているうちは、落ち着いた安らぎなど決して訪れないということ。
それらは、心臓の鼓動でいえば、心拍数があがっている状態であり、動悸や頻脈ともいえるだろう。落ち着いた状態というのは、心拍数が自然に安定して平均値を示していることだ。
快楽の絶頂に幸福を求めることは、心拍数をあげるものを取り入れながら、静穏な鼓動を求めるようなものだと、この年になってやっとわかる。快楽に幸福を求めることには限界があるという事実に気づかなかったのだ。興奮しながら安心を得ようとする矛盾である。
刺激=幸福ではない。刺激がなくなっても失われない、安らぎや穏やかさが心の中心にあることこそが幸福なのだと思う。
それは、陶酔感や高揚感や快楽の絶頂を、「幸福である証拠」と信じて追い求めているうちは、落ち着いた安らぎなど決して訪れないということ。
それらは、心臓の鼓動でいえば、心拍数があがっている状態であり、動悸や頻脈ともいえるだろう。落ち着いた状態というのは、心拍数が自然に安定して平均値を示していることだ。
快楽の絶頂に幸福を求めることは、心拍数をあげるものを取り入れながら、静穏な鼓動を求めるようなものだと、この年になってやっとわかる。快楽に幸福を求めることには限界があるという事実に気づかなかったのだ。興奮しながら安心を得ようとする矛盾である。
刺激=幸福ではない。刺激がなくなっても失われない、安らぎや穏やかさが心の中心にあることこそが幸福なのだと思う。
by ecdysis
| 2013-12-16 23:33
| アダルトチルドレン・依存症
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