完璧すなわち幸福ではなかったのか。

 ふりかえれば、私は自分にとって完璧で完全な人や環境が手にはいれば幸福になれると信じてきた。
 自分自身についても、容姿から内面まで「完全であれば幸せになれるのに」という願望と嘆きを、言葉以前の段階で持ち続けていたのに気づく。
 しかし、今頃になって、それがやっと言語化され、しかも完全も完璧もありえない幻想だとわかったという始末である。

「完全であれば幸福になれる」という幻想は、多分に母親の期待にこたえることが幸福だと信じ込んだ幼児意識に由来する。空想的な完璧さをわが子に求めた母の期待の過大さがたたったという他はない。

 現実には完全も完璧もないし、あらゆる人も環境も不完全で、常に訂正や修正、見直しが行われて、絶えざる変化の渦中にある。私が空想したような「不変にして不動な完璧さ」をもつ物や事や人はない。
 母が私に願ったものも、理想というよりは幻想・妄想といった方がよい「完全主義」「完璧志向」だったわけだ。

 これも最近、やっと言葉になったが、この現実の中で幸せになるのに、完全であることや完璧であることは必要ではないのだ。
 不完全でも欠陥があっても、それとはかかわりなく人は幸せを感じることができるし、幸福にもなれる。
 それなのに私は、自分や周りの環境の不完全さのゆえに、幸せが手に入らないと思い込んでいた。

 そうではないとやっとわかった。森羅万象、不完全で完璧ではないのが当たり前で、それを当然の前提として受け入れ理解しながら生きることによって、人は人間らしい無理のない幸せを感じることができるのだ。

 完全や完璧を当たり前の前提として生きると、それが妄想であることに気づかないまま、自分では正しい方向に進んでいるつもりなのに、どんどん迷い道にはまることになる。理想を追っているはずなのに、どんどんそれを裏切る人間関係や出来事に巻き込まれ、だまされ傷つくことばかりになる。

 さらには、自分の不完全さや欠点を棚上げにして、他者を「不完全だ」「欠陥がある」と責めて裁くことが多くなる。世間が狭くなり生きづらさが増すばかりになる。

 幸せになるということと、完全さ完璧さを求めるということは、別のものなのだ。
 私は世間知らずのACとして育ってしまったので、こんな当たり前のことに気づいて言語化できるまで、ずいぶん時間がかかってしまった。
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Commented by riko at 2014-05-24 16:18 x
泣き疲れて気持ちが軽くなるという体験を初めてしました。
私も世間知らすのACなので、大切なことに気づくのに時間がかかりすぎます。
手遅れ、取り返しがつかない、悔しい、ばかやろう母親。
そんな感じでした。

母によって失ったものの多さ大きさったら、言葉にできないほどです。
でも彼女も彼女の親によって、ああなった部分が大きいのですよね。


まだまだ気づかないこと、気づいているけど整理できていないこと、多々あるんだろうなぁ。

心炎さん、いつもありがとうございます。
Commented by 心炎 at 2014-05-27 02:31 x
rikoさん、泣けて気持ちが軽くなった経験をされてよかったですね。、親に向かって「ばかやろう」と思えたのも、ACにとって重要な「遅れてきた反抗期」がきたようなので回復に向かってるんですね。児童期から思春期にインナーチャイルドが育ってきたんでしょう。肉体年齢にインナーチャイルドの感情年齢が追いついていくのが回復のひとつの指標なので、rikoさんの日ごろの回復の努力の結果が現れている証拠と思いました。遅くてもいいから、気づけばOKじゃないでしょうか。
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by ecdysis | 2014-05-22 02:14 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)