さらば少年の日の病んだ希望よ
2015年 02月 25日
一昨日に54歳になったばかりだから、いまから36年前、18歳の頃のことだ。
すでに何度か書いたように、私はその当時、AC性が爆発的に発現して地獄のような引きこもり浪人生生活を送っていた。
心は、世間への恨みと怒りと憎悪と僻み妬みの嵐に燃え狂い、その原因となった祖母を殺してやろうと思っていた。
予備校には半年しかいかなかった。外出恐怖症になり、極端な自意識過剰が昂じて対人恐怖と被害妄想に陥り、部屋にこもっていた。
外に出れば行き交うすべての人が自分をバカにし嘲り、汚物が歩いているかのように忌み嫌っているとしか思えなかった。彼らは平気な顔をしていても、きっとおれのことを心の中では蔑み嫌悪し冷たい笑いを浮かべているにちがいないと信じた。
夜に酒とタバコを買いに徒歩で外出すれば、暗い路地の向こうから対向してくる車のヘッドライトが、どうしても自分をひき殺そうと向かってきているとしか思えず、道の脇の塀に背中を押しつけて通り過ぎるのを待っていたりした。
飲酒・タバコ・習慣的な過度の性の自慰行為・抜毛症・占い依存・ロック音楽依存がいっぺんに吹きすさんでいた。
気がくるっていたとしか言いようがなかったが、だれか自分を殺して欲しいとも思ったし、世間の何もかも破壊して傷つけて回復不能なまでのダメージを与えてやりたいと願うこともしばしばだった。
自分をこの世にあらしめる神を恨み呪い、神に逆らうためならわが身が悪魔になってもいいと念じた。
自分がなんのために生まれたのか、どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか、まるでわからず、魂が錆と灰にまみれ、虚無感と自己憐憫にのたうちまわった。
そして消耗しきり、当時の私は占いをくりかえし、なんとかこういう地獄から抜け出して、一気に天国状態に昇れる運がないものかと探し続けた。
しかし、十数種の古今東西の占いをやっても、私がこの世の天国を味わえる機会はないと出るし、大成功も大金持ちになることもできないという結果ばかりだった。
私は苛立ち怒り、ではどうすればいいのかとうめいた。そして、真夏のある日、占う題目を変えた。
「成功が望めないなら、普通の人並みの中くらいの生活ならできるか」と。
すると、それには肯定的な回答が多かったので、私は考えあぐんでしまった。
今、思い出したが、あのときは確か停電の夜で、部屋が暗くてロウソクをつけていたと記憶する。
小さなシンクに置いた茶がら捨ての容器の中で、緑茶の茶がらが腐って溶け、すえた臭いを放っていたのを思い出す。
ロウソクしかない暗がりの中で、私は「普通の生き方が自分にとって最良なのか・・・」と胸深く思った。
ふいに私は、「そうだ。それが正しい」とひらめいた。
あれほどひどい家庭環境で傷ついた自分は、その家庭環境を普通にすることで癒されるはずだ。いい人と結婚し良い家庭をつくるんだ。それなら母も願っていることだし、すべてうまくいく。普通の人になって良い家庭を築くんだと。
それは、私の心に激しいまでの生きがいと希望を燃え上がらせた。これまでまったく考えてもみなかったことだからだ。
良き父、良き夫になって、自分の過去の傷を癒し、家族の関係を修復し、アットホームな家庭にするのだと決意した。
それが、どれほど輝かしい闇夜にともったまばゆい炎だったことか。
それから36年間、失望と幻滅と悲劇を重ねながら、病的な生き方をしてきた果てに、私はいまようやく思う。
あの燃え立つ家庭建設の希望は、当時の私には唯一の生きがいとなり希望となり、自分がまともになれるという可能性の象徴だった。
そういうことを決意できた自分は、まだ正常であり健康であり、まともなのだと頭から思いこんでいた。
今、やっとわかった。涙がこぼれるが、その家庭願望もまた、狂っていたのだと。
精神を病んでいた上に、占い依存の果てに思いついた「決意」が、健康なまともなものであるはずがなかったのだ。
18歳のとき、「この願いだけは正しい」と信じた「良い家庭をつくれば幸せになれる」という願望も病んでいる症状のひとつだったのだ。
それは妄想であって、何も現実化しなかった。そのことが36年かけて証明された。
何より、「家庭環境を修復する」前に、自分自身を修復することが必要だったのに、私はそのことにまったく思い至らなかった。
幼すぎたのはいうまでもない。適当な相手と出会って婚姻すれば自動的に願いが果されると思い込んでいたのだ。
36年間という長い長い幻想と妄想の月日に、泣きながら私は別れを告げよう。
その間に傷つけてしまったすべての人たち、とくに私が愛し、そして私を愛してくれた女性たちに心からお詫びを言いたい。
すでに何度か書いたように、私はその当時、AC性が爆発的に発現して地獄のような引きこもり浪人生生活を送っていた。
心は、世間への恨みと怒りと憎悪と僻み妬みの嵐に燃え狂い、その原因となった祖母を殺してやろうと思っていた。
予備校には半年しかいかなかった。外出恐怖症になり、極端な自意識過剰が昂じて対人恐怖と被害妄想に陥り、部屋にこもっていた。
外に出れば行き交うすべての人が自分をバカにし嘲り、汚物が歩いているかのように忌み嫌っているとしか思えなかった。彼らは平気な顔をしていても、きっとおれのことを心の中では蔑み嫌悪し冷たい笑いを浮かべているにちがいないと信じた。
夜に酒とタバコを買いに徒歩で外出すれば、暗い路地の向こうから対向してくる車のヘッドライトが、どうしても自分をひき殺そうと向かってきているとしか思えず、道の脇の塀に背中を押しつけて通り過ぎるのを待っていたりした。
飲酒・タバコ・習慣的な過度の性の自慰行為・抜毛症・占い依存・ロック音楽依存がいっぺんに吹きすさんでいた。
気がくるっていたとしか言いようがなかったが、だれか自分を殺して欲しいとも思ったし、世間の何もかも破壊して傷つけて回復不能なまでのダメージを与えてやりたいと願うこともしばしばだった。
自分をこの世にあらしめる神を恨み呪い、神に逆らうためならわが身が悪魔になってもいいと念じた。
自分がなんのために生まれたのか、どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか、まるでわからず、魂が錆と灰にまみれ、虚無感と自己憐憫にのたうちまわった。
そして消耗しきり、当時の私は占いをくりかえし、なんとかこういう地獄から抜け出して、一気に天国状態に昇れる運がないものかと探し続けた。
しかし、十数種の古今東西の占いをやっても、私がこの世の天国を味わえる機会はないと出るし、大成功も大金持ちになることもできないという結果ばかりだった。
私は苛立ち怒り、ではどうすればいいのかとうめいた。そして、真夏のある日、占う題目を変えた。
「成功が望めないなら、普通の人並みの中くらいの生活ならできるか」と。
すると、それには肯定的な回答が多かったので、私は考えあぐんでしまった。
今、思い出したが、あのときは確か停電の夜で、部屋が暗くてロウソクをつけていたと記憶する。
小さなシンクに置いた茶がら捨ての容器の中で、緑茶の茶がらが腐って溶け、すえた臭いを放っていたのを思い出す。
ロウソクしかない暗がりの中で、私は「普通の生き方が自分にとって最良なのか・・・」と胸深く思った。
ふいに私は、「そうだ。それが正しい」とひらめいた。
あれほどひどい家庭環境で傷ついた自分は、その家庭環境を普通にすることで癒されるはずだ。いい人と結婚し良い家庭をつくるんだ。それなら母も願っていることだし、すべてうまくいく。普通の人になって良い家庭を築くんだと。
それは、私の心に激しいまでの生きがいと希望を燃え上がらせた。これまでまったく考えてもみなかったことだからだ。
良き父、良き夫になって、自分の過去の傷を癒し、家族の関係を修復し、アットホームな家庭にするのだと決意した。
それが、どれほど輝かしい闇夜にともったまばゆい炎だったことか。
それから36年間、失望と幻滅と悲劇を重ねながら、病的な生き方をしてきた果てに、私はいまようやく思う。
あの燃え立つ家庭建設の希望は、当時の私には唯一の生きがいとなり希望となり、自分がまともになれるという可能性の象徴だった。
そういうことを決意できた自分は、まだ正常であり健康であり、まともなのだと頭から思いこんでいた。
今、やっとわかった。涙がこぼれるが、その家庭願望もまた、狂っていたのだと。
精神を病んでいた上に、占い依存の果てに思いついた「決意」が、健康なまともなものであるはずがなかったのだ。
18歳のとき、「この願いだけは正しい」と信じた「良い家庭をつくれば幸せになれる」という願望も病んでいる症状のひとつだったのだ。
それは妄想であって、何も現実化しなかった。そのことが36年かけて証明された。
何より、「家庭環境を修復する」前に、自分自身を修復することが必要だったのに、私はそのことにまったく思い至らなかった。
幼すぎたのはいうまでもない。適当な相手と出会って婚姻すれば自動的に願いが果されると思い込んでいたのだ。
36年間という長い長い幻想と妄想の月日に、泣きながら私は別れを告げよう。
その間に傷つけてしまったすべての人たち、とくに私が愛し、そして私を愛してくれた女性たちに心からお詫びを言いたい。
by ecdysis
| 2015-02-25 03:36
| アダルトチルドレン・依存症
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