「正常」「まとも」の定義さえAC性で解釈していた

  私のこれまで願ってきた「まともになりたい」「正常になりたい」という想いの中でイメージされる「まとも」「正常」とはなんだったのだろうかと考える。

 「普通になりたい」「人並みになりたい」というときの、私のとっての「普通」「人並み」とは、どういうイメージを持っていただろうか。

 やはり、それは子供をACにしない健康な家庭の人たちが、イメージするものとは違っていたのではないかと感じる。

 言葉は同じでも、私のイメージする「まとも」「正常」「普通」「人並み」には、いつも「完璧な」「問題のまったく生じない」「欠点のない」という「完全」という意味が前提にあったとわかる。

 それは、今にして思えば、健康な家庭で育った人たちのとは、かなりへだたったものだ。

 なぜなら、健康な生い立ちの人たちには、「正常・普通・まとも・人並み=まったく問題がない状態」という定義は存在しないからだ。むしろ「問題があっても適切に対処し解決できる状態=正常・まとも」ということを言葉以前の段階で知っている。

 かつての私にとって「まともになる」とは「非の打ちどころのない完全な状態になる」としか思えなかった。
 しかし、それこそがACならではの大きな思い違いであった。

 問題は起こらないわけがなく、起こっても異常で不適切な対処法をとらない、というのが正常なのだ。
 それを私は「問題が起こらないようにする、問題が起きないでいること」を正常と解釈していた。

 だから、だれにとっても生きることは問題だらけの人生であるのに、私は物心ともに問題が起きるたびに、「まだまともになれない。まだ正常になれない」と悩んできたのだ。
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by ecdysis | 2015-07-11 00:53 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)