依存症という自己欺瞞

 依存症は、依存の対象にのめりこめばこむほど、依存をすればするほどみじめになる。

 たとえば、私が青年期に某カルト宗教団体の教祖を盲信したときも、そうだったのだと、今日初めてはっきりと思い返した。

 もちろん、その教団の教祖も幹部も信者も自分たちがカルトだなどとは認めはしない。しかし、現実にそこから派生したり、そこの教義の影響を強く受けた複数の宗教団体が、新聞や週刊誌やワイドショーネタになっていることからも、カルトと呼ぶ以外にない団体だ。

 私は、当時若かったそこの女教祖に恋をし、崇拝し、依存して心の励みと支えにして生きていた。恋愛(女性)依存と教祖依存とが複合された深刻な対人依存だった。
 だからこそ、教祖というもおこがましいニセモノのサイコパス人間だとわかったとき、激しい失意と幻滅に陥り、絶望し、うつ状態に陥って自殺を考えるまでになった。

 その対人依存の病的なありさまと、アルコール依存などの物質依存が、「依存すればするほど救われず、意に反してみじめにつらい時間が続く」という共通点があることに気付いたのだ。

 いまにして思えば、アルコール依存でも恋愛依存でも教祖依存でも、いずれも依存している間、心が安らいだ記憶がまったくない。

 たしかに依存している間は、励みを感じ、生きがいが与えられ、心の支えを感じはしたが、そういう短い瞬間をのぞけば、いつも極端な自己評価の低さや、不安や恐怖、不信やみじめさにさいなまれていた。

 結論からいえば、依存対象にすがればすがるほど、頼れば頼るほど、もっともっとみじめになっていく一方だったような気がする。

「宗教はアヘン」とマルクスはいったが、酒を飲んだり、だれかに恋して結婚することを夢想したり、教祖が世界と人類を救ってくれるという期待を抱くたびに、たしかに麻薬的にその場限りの活性化はあった。だからこそ、その気持ちの高ぶりと活性化こそ、酒や恋や教祖の与えてくれる「効果」だと信じた。
 
 しかし、振り返れば根本的かつ長期的な実生活の改善をともなう機会は、それらの依存によっては一度も生まれなかった。つまり、もっとも変えたかった苦しみの原因が、何も解決されず、期待だけがあって結果は何も変わらなかったのだ。 

 これではまるで「リーチ」まで何度も達し「大当たり」の期待を繰り返し抱かせながら、決して「大当たり」しないパチンコに依存したようなものだ。

 別の言葉でいえば、「盲信」「思い込み」だけで自分を支え、現実を直視できなかった。
 酒も恋愛感情も教祖・教団への想いも、脳内の感情を支えて賦活化してはくれたが、現実を良くする「行動化」は起こらなかった。 

 現実に詐欺師にだまされた経験もあるが、彼らはこの「期待感」を抱かせることが実に巧みだ。
 その意味で、カルト教祖も詐欺師であるし、私自身も詐欺師である。

 依存症とは、自分で自分にしかける「詐欺」「自己欺瞞」なのだ。
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by ecdysis | 2015-09-13 00:45 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)