不当な扱いをされて憤怒を覚えるときがある
2016年 03月 16日
仕事でもプライベートでもネット上でも、自分に対する不当な酷評や悪口や誹謗には、つい反応して憤怒を起こすことが多い。
言ってくる相手に対し、同じような言い方でやり返すことは、かろうじてしないで済んでいるが、その怒りは尾を引くもので思い出しては憤りを新たにすることも多い。
むろん、自分に向けられた誹謗中傷に怒り不快感を覚えるのは、だれしも当然ではあるが、これが憤りと恨みになれば、苦しむのは自分自身にほかならない。
最近もそういう経験をして、実にいやな感情を避けることができないでいた。できるだけ早く忘れるか、自分の中で怒りのストレスを、早く解消するにしくはない。
執念深く覚えていて「ちくしょう、ふざけやがって。今度あったらどうしてくれようか」と憎み続けるのも苦しいだけだからだ。
もちろん、頭では、こんなことぐらいで、いつまでも恨みがましく思っても益はないとわかっている。
相手にやり返したとしても、何も変わらないこともわかっているし、その相手が他の人にも私にしたのと同様の誹謗を行っているだろうことも推測できる。
そういう人種は、たいていの場合、よそでも迷惑人間として嫌われているだろうこともわかる。
「一事が万事」のことわざ通り、ある一定のレベルを超える誹謗中傷や迷惑行為をなす者は、ある種の病にかかっているのであり、だれに対してもどこにいても同じパターンで迷惑行為を実行する。
そして、だれからも嫌われ、あるいは敬遠されて、温かい親密感を他者との間に形成することができない。アルコール依存や薬物依存やギャブル依存に走っている者も多い。
その被害者である私もまた、相手の性別や年齢が変わっても、不当なそしりと悪口を放つ者には許せないという激しい怒りが、いつもおさえがたく起きて、事態が終わった後でも悪感情をひきずって苦しむ。
私に迷惑な言動を働く相手もまた、健康な精神の持ち主ではなく、ACであることが大半なので同類ではあるのだから、許せればよいのだが、忍耐はかろうじてできても怒りがなかなか解消されない。
ただ、以前の私なら、頭ごなしに自分に対し「怒ってはならない」と禁忌を課したが、いまはちがう。
これは怒るのは当然で、誰でも自分と同じ目にあえば、同じような感情を抱くのが自然であると理解し受容もしている。
では、怒りの何が問題なのかというと、この怒りと痛みと復讐心を何日もひきずって執念ぶかく思い返すのが、非常に苦しいということなのだ。
思い出すことで不機嫌になり、気分がむかむかしてきて、何も楽しめなくなる。仕事中なら憤りの鋭い感情にとらわれてミスを犯すし、布団にもぐりこんでから思い出せば眠れななくなる。
このパニック障害じみた憤怒の苦しさは、許しによってしか寛解しないということもわかっている。
こういう事態は、自助会で体験談として吐き出せば、一時は鎮まるが、吐き出すだけでは解決にならない。
言葉で外に表現すれば怒りの泥はひととき沈殿するが、かきみだされれば心がたちまち憤怒に濁る。泥をなくさねば心は澄まないのだ。
そこで、この怒りの泥がいつできたのか、原因が何なのかを調べなければ苦しさは減らない。
怒るパターンは同じなので、幼少期までさかのぼり、同様のパターンがなかったかどうか自分の中を調べてみる。
これまでは、この不当な他者からの仕打ちに憤怒するのは、自分の生まれ持った短所であり、忍耐力を増すことだけが対応策と思ってきた。
しかし、今日、改めて自分の過去の体験を思い返してみて、この憤怒の感じやすさと執念深さには、はっきりと理由があることがわかった。
それは、人格障害であった祖母の母への日常的な虐待を目の当たりにし続けたことに原因があった。
思い出すのもつらいのだが、父方の祖母の私の母への虐待は言葉でも暴力でも、毎日、過酷なものがあった。
祖母の嫁への憎悪は、狂気の域に達していて、不当な誹謗中傷と悪意に満ちたものであり、母が耐え切れずに泣き叫んでいたことも多々あった。
祖母の虐待の連続と、祖父や父の酒乱によるいざこざのせいで、母もついには私が中学2年のときにキッチンドリンカーになってしまったほど、ひどかったのだ。
だからこそ、私は高校3年になってから祖母を憎みだし殺意をいだくまでになった。
祖母のことは許しているが、母を目の前で虐待されて苦しめられたことは忘れてはいない。
それらの家庭内での虐待の直接・間接の被害者になった恨みつらみが解消されたわけではなかったのだ。
母を目の前で不当に加虐され、苦しめられた息子の恨みつらみが憎しみの泥となって沈殿している。
それが、祖母と同様の不当な言動をとる相手に会うと、たちまち巻き起こって怒り憤りに心が占められてしまう。これが、今まで明白に自覚できなかったパターンなのだ。
だから、祖母のような汚く不当な罵り言葉を浴びせる者や、いわれのない悪意の言動で押しかけてくる者に、激しい目のくらむような憤怒で反応してしまうのだ。
それは、実母をいわれない不当な虐待で苦しめられた息子の恨みであり、祖母に対して復讐せねば気が済まないという、「母の仇討ち」感情でもある。
母を苦しめる祖母をやっつけて母を助けたかった子供の心が、私の中に今も生きているのだ。
だから、私はその子にいう。もういい。おかあさんは、もうこの世にはいない。仇討ちは無意味になった。
おばあさんも自殺した。おかあさんを不当に苦しめ続けた報いを、自分で自分の寿命を縮めて返上することで受けたのだ。だから、もう恨みと怒りと憎しみを手放そう。
ただ、もう自分以外に、同じような苦しめあう家族関係が増えないように、一家族でも減るように、自分と同じような思いをする子供たちがいなくなるように、神様に祈ろう。
心を病んで依存症になったり人格障害になる人たちが減るように、心の病気で狂ってしまい悪意に心を支配されてしまった人たちが正気を取り戻すように、祈ろう。
狂った心を持った人たちは、健康な人たちよりも自殺などの致死率がきわめて高い。しまいには、自分で自分を殺めてしまうのだ。
そういう人たちが、正気をとりもどしますように、健康な心に回復しますように。そう祈り続けよう。
言ってくる相手に対し、同じような言い方でやり返すことは、かろうじてしないで済んでいるが、その怒りは尾を引くもので思い出しては憤りを新たにすることも多い。
むろん、自分に向けられた誹謗中傷に怒り不快感を覚えるのは、だれしも当然ではあるが、これが憤りと恨みになれば、苦しむのは自分自身にほかならない。
最近もそういう経験をして、実にいやな感情を避けることができないでいた。できるだけ早く忘れるか、自分の中で怒りのストレスを、早く解消するにしくはない。
執念深く覚えていて「ちくしょう、ふざけやがって。今度あったらどうしてくれようか」と憎み続けるのも苦しいだけだからだ。
もちろん、頭では、こんなことぐらいで、いつまでも恨みがましく思っても益はないとわかっている。
相手にやり返したとしても、何も変わらないこともわかっているし、その相手が他の人にも私にしたのと同様の誹謗を行っているだろうことも推測できる。
そういう人種は、たいていの場合、よそでも迷惑人間として嫌われているだろうこともわかる。
「一事が万事」のことわざ通り、ある一定のレベルを超える誹謗中傷や迷惑行為をなす者は、ある種の病にかかっているのであり、だれに対してもどこにいても同じパターンで迷惑行為を実行する。
そして、だれからも嫌われ、あるいは敬遠されて、温かい親密感を他者との間に形成することができない。アルコール依存や薬物依存やギャブル依存に走っている者も多い。
その被害者である私もまた、相手の性別や年齢が変わっても、不当なそしりと悪口を放つ者には許せないという激しい怒りが、いつもおさえがたく起きて、事態が終わった後でも悪感情をひきずって苦しむ。
私に迷惑な言動を働く相手もまた、健康な精神の持ち主ではなく、ACであることが大半なので同類ではあるのだから、許せればよいのだが、忍耐はかろうじてできても怒りがなかなか解消されない。
ただ、以前の私なら、頭ごなしに自分に対し「怒ってはならない」と禁忌を課したが、いまはちがう。
これは怒るのは当然で、誰でも自分と同じ目にあえば、同じような感情を抱くのが自然であると理解し受容もしている。
では、怒りの何が問題なのかというと、この怒りと痛みと復讐心を何日もひきずって執念ぶかく思い返すのが、非常に苦しいということなのだ。
思い出すことで不機嫌になり、気分がむかむかしてきて、何も楽しめなくなる。仕事中なら憤りの鋭い感情にとらわれてミスを犯すし、布団にもぐりこんでから思い出せば眠れななくなる。
このパニック障害じみた憤怒の苦しさは、許しによってしか寛解しないということもわかっている。
こういう事態は、自助会で体験談として吐き出せば、一時は鎮まるが、吐き出すだけでは解決にならない。
言葉で外に表現すれば怒りの泥はひととき沈殿するが、かきみだされれば心がたちまち憤怒に濁る。泥をなくさねば心は澄まないのだ。
そこで、この怒りの泥がいつできたのか、原因が何なのかを調べなければ苦しさは減らない。
怒るパターンは同じなので、幼少期までさかのぼり、同様のパターンがなかったかどうか自分の中を調べてみる。
これまでは、この不当な他者からの仕打ちに憤怒するのは、自分の生まれ持った短所であり、忍耐力を増すことだけが対応策と思ってきた。
しかし、今日、改めて自分の過去の体験を思い返してみて、この憤怒の感じやすさと執念深さには、はっきりと理由があることがわかった。
それは、人格障害であった祖母の母への日常的な虐待を目の当たりにし続けたことに原因があった。
思い出すのもつらいのだが、父方の祖母の私の母への虐待は言葉でも暴力でも、毎日、過酷なものがあった。
祖母の嫁への憎悪は、狂気の域に達していて、不当な誹謗中傷と悪意に満ちたものであり、母が耐え切れずに泣き叫んでいたことも多々あった。
祖母の虐待の連続と、祖父や父の酒乱によるいざこざのせいで、母もついには私が中学2年のときにキッチンドリンカーになってしまったほど、ひどかったのだ。
だからこそ、私は高校3年になってから祖母を憎みだし殺意をいだくまでになった。
祖母のことは許しているが、母を目の前で虐待されて苦しめられたことは忘れてはいない。
それらの家庭内での虐待の直接・間接の被害者になった恨みつらみが解消されたわけではなかったのだ。
母を目の前で不当に加虐され、苦しめられた息子の恨みつらみが憎しみの泥となって沈殿している。
それが、祖母と同様の不当な言動をとる相手に会うと、たちまち巻き起こって怒り憤りに心が占められてしまう。これが、今まで明白に自覚できなかったパターンなのだ。
だから、祖母のような汚く不当な罵り言葉を浴びせる者や、いわれのない悪意の言動で押しかけてくる者に、激しい目のくらむような憤怒で反応してしまうのだ。
それは、実母をいわれない不当な虐待で苦しめられた息子の恨みであり、祖母に対して復讐せねば気が済まないという、「母の仇討ち」感情でもある。
母を苦しめる祖母をやっつけて母を助けたかった子供の心が、私の中に今も生きているのだ。
だから、私はその子にいう。もういい。おかあさんは、もうこの世にはいない。仇討ちは無意味になった。
おばあさんも自殺した。おかあさんを不当に苦しめ続けた報いを、自分で自分の寿命を縮めて返上することで受けたのだ。だから、もう恨みと怒りと憎しみを手放そう。
ただ、もう自分以外に、同じような苦しめあう家族関係が増えないように、一家族でも減るように、自分と同じような思いをする子供たちがいなくなるように、神様に祈ろう。
心を病んで依存症になったり人格障害になる人たちが減るように、心の病気で狂ってしまい悪意に心を支配されてしまった人たちが正気を取り戻すように、祈ろう。
狂った心を持った人たちは、健康な人たちよりも自殺などの致死率がきわめて高い。しまいには、自分で自分を殺めてしまうのだ。
そういう人たちが、正気をとりもどしますように、健康な心に回復しますように。そう祈り続けよう。
by ecdysis
| 2016-03-16 01:12
| アダルトチルドレン・依存症
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