私の目に見えない何かを求める旅は、死後世界への恐怖からはじまった
2016年 03月 25日
掲示板の方にも書いたが、このところ仏教書を読み漁っている。
どうも私は、この世の世俗のことがうまくいかないので、目に見えない聖なる世界へ逃避しようとしているのだろうか。
あるいは弟や母や友人たちの不幸な死に何度も遭遇して、死後の世界や生まれる前の世界などのスピリチュアルなことへの関心がよりいっそう強くなったということなのだろうか。
理由はともかく、数年前から「死への恐怖」というものが「苦痛への恐怖」とならんで、自分の苦しみの根源に横たわっていると感じてきた。
すなわち、盲目的な「死への恐怖」が私の中にあり、それが極めて強い磁力源となって、精神的な苦悩を引き寄せていると感じてきたのだ。
盲目的なので論理的ではないし感覚的・感情的なものであって、死とはコールタールのようなどろどろの暗黒の底なし沼に沈むイメージがある。
少なくとも、私は若い頃から人が死んだら無になるという「信仰」は持ち合わせておらず、死んだら魂になって別の世界で生きるという「信仰」を持っている。
厳密にいえば「死そのものへの恐怖」というよりは「自分の死後には恐ろしい永遠に窒息し続ける苦悶の世界が待っている」という根拠不明な一種の強迫観念がある。
これはAC性が強烈に発現し、ACである自覚もなく、その症状だけをなんとかしようとあがきはじめた19歳のときから続いている。
私のカルト宗教をはじめとした宗教的な彷徨と遍歴は、実にその19歳以来の強迫観念との闘いであり、それをなんとかしようとする道程でもあった。
これは宗教に依存するタイプの人間の典型的心理の一種だが、「死後に天国に行けるように現世を生きる」というのがテーマになっていたとわかる。
それは、逆にいえば「堕地獄恐怖症」でもあり、「このままの生き方では死んだあとに暗黒の地獄にまっさかさまに落ちて二度と良い世界へは昇れない」という強迫観念がある。
20歳ごろには、その理由のわからない強迫観念を信じ切っていた。
ちょうどそのころ、親鸞の「歎異抄」の中に「とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」という一文があって、それが「なんといってもこんな自分は、地獄行き以外に道がない人間である」という意味なのを知って驚いた。
だからといって、浄土宗や浄土真宗に惹かれたわけでもない。
それは、新約聖書のキリストの言葉を読んで自殺を思いとどまった位、人生で強い影響を受けているのに、教会とはほとんど関わりを持たず、一度も洗礼を受ける気にならなかったのと同じだ。
きれいな言葉でいえば書斎派なのかもしれないが、その一方で「釈迦の生まれ変わり」を広言するカルト教祖にはまったりしたのだから情けない限り。
カルトにはたちまち引き込まれたくせに、既存の寺院・教会に、どうしてそんなに無関心だったのか、あまりにも無知過ぎたせいかもしれないが、以下のようなことぐらいしかわからない。
それもAC性の発現かもしれないが、私は自分の生まれた家庭と同様、既存の世界に絶望し、そんな絶望の世界に対して教会や寺院は無力で無能な存在だと思い込んでいたのかもしれない。
もし、既存の宗教寺院や教会が、人間の苦しみに有効ならば、なぜ自分はこんなに苦しいのか。なぜ自分の生まれた家庭は不幸続きなのか。なぜ世界にはこんなにも争いや苦しみや傷つけあう醜悪な出来事が絶えないのか。
そんなような叫びが、心の中にあったと思う。もし、既存の宗教が信じるに値するなら、世界はこんな風にはならなかったはずだと。
だから、私は「既存の宗教は腐敗してでたらめで有害である。私の唱える教義こそ真実の世界救済をなす」というカルト教祖のよこしまな教説につけこまれたのだ。
だが、今は思う。救済は個人単位でしか実現されない。大勢の人間を集団単位で救済することはできない。
もっというなら、目に見えない善なる存在を意識しなければ、人間は人間自身を精神的・道徳的に救う力を持たない。
目に見えない普遍の存在を意識しない限り、人間は人間を精神的・道徳的に救済することはできない。
人間は、精神的・道徳的・良心に関して、自分の苦しみを自力で救うことはできないのだ。
精神も道徳も良心も、世俗的な欲望と不安と恐怖によって絶えず脅かされ傷つけられている。
私は、そのような恐怖と不安から解放されたいと数年前から思い続けてきた。
そして、いつしか「永遠に生き続ける自分」というものがあるのではないかと、うっすらと感じるようになってきた。
わかりやすい言葉でいえば「死への恐怖は妄想であり恐れることなど何もない」という境地になりたいと願うようになった。
それは今でもずっと続いている。