機能不全家庭の親たちの子供を不幸にする暗黙の強迫メッセージ

 お盆休みに、毎年恒例の年に一度の墓参りに帰省した。

 78歳の父親は元気で、片足をややひきずりながら車の運転もするし買い物もする。
 母が亡くなったあと、いっしょに暮していた「おばちゃん」は昨年の11月末、弟の命日に父親に愛想をつかして出て行ったという。
「おばちゃん」もこれで3度か4度目の愛想づかしの別離だが、今度こそ、もう戻ってこないかもしれない。

 この9か月近く、ずっと一人暮らしだったのを、私にも妹にも近くの叔父にも知らせないでいたという。相変わらず理解に苦しむ行動をしている。電話も故障しており、これではいざというとき大変なので、おおあわてで年寄り向けのシンプルな安いのを買って送った。

 そして、この父親に関して、やはり共依存の病的な心配性が、私の心に恐れと苛立ちを運び、日帰りにもかかわらず、ひどく疲労した。

 すでに3年前に、父親を妹夫婦がひきとって老後の面倒を見てもいいと、叔父たちとも相談した上で決めたのに、最初は承諾したのにもかかわらず、しまいには手のひら返して「ここにいる」といいはり、以来、妹は激しく怒りあきれている。だから、どんなに父の一人暮らしが寂しいかろうと、もう「ひとりでは暮らせない。助けてくれ」と白旗をあげるまで妹は手助けしないと宣言しているし、私もそれを支持している。

 父親は、土建業の職歴を生かして土台から屋根まで独力でつくった倉庫のような住まいが気に入っているし、そこに愛着があるのだという。トイレも水道もない不便きわまる家屋で、土地も農地扱いで宅地申請もしていない。井戸も掘ったが鉄分過剰なすぐに錆びる水で飲用には適さない。飲料水は小型トラックで20分ほどの山の神社の湧水をポリタンクで何本も汲んできたり、知り合いに水道水を汲んでもらって確保している。
 そんな生活を10年近くも続けている。

 私や妹や叔父夫婦や役所の福祉課のワーカーやヘルパーのひとたちなど、まわりの心配や危惧をよそに本人はいたって気に入った風なのだ。

 どうも私の父親は、若い頃からのエピソードをつなげてみても発達障害があるようで、人と暮らしたりいろんな義務を課せられるのがきわめて苦手のようだ。ふつうの人間なら我慢がならない不便さも気にならず、逆にふつうの人がふつうに求める快適さや適度の社交や楽しみやいろどりや精神的豊かさという、いわば生活上の良識に属することを避けて抵抗する傾向が強いと、改めて気づいた。

 自分のつくった場所で思った通りの農作業や簡単な土建作業などをおこない、自給自足にいそしみ、願った通りに生きられれば、ひとりでも平気という結論になる。むしろ、ふつうの人たちが求めるいい家やいい車や衣服や、社交上の儀礼や装飾などや、生活上の便利さやうるおいやいろどりを与えるようなものは、いっさい無用のわずらわしいものとしか感じられないようだ。

 だから、私の母もふくめて、ふつうに生活上の便利さやうるおいやいろどりを求める女性と結婚して暮らすのは、そもそも無理な男だったのだと、やっとわかった。彼にとって女性たちの化粧も衣装も女性らしい買い物の数々も、ムダで余分なカネのかかる理解に苦しむ行動だろう。衣食住すべてに対してそうなのだ。

 こうした父親のありようを見て、いらだちを感じる自分をふりかえって、私は今日、大きな気づきを得た。

 それは、私が強迫的に父親のことを心配するのは、母との共依存がスライドしているということだ。この尻尾をすっかり切らないと精神の安定に問題が生じる。

 その共依存の核心がわかったような気がするのだ。何が核心かというと、その強迫観念の持つ暗黙のメッセージを言葉にすると「親を一番に大事にしないおまえは息子ではない」というものだ。
 ここで、大事なのは「だれよりも親を大事にしなければならない」というところだ。これを親側からいえば「私をだれよりも一番、大事にしなさい」ということになる。この暗黙のメッセージに従うことに強迫的になっていた私は、思春期以降どうなったか。
 恋人や結婚したい人が現れても、親に何かあれば親の方に心がいってしまい、自分にとって本当に大事にしなければならない人やものごとがおろそかになってしまう。そんな今思えば由々しい弊害があったのだ。
 これでは、たとえ結婚して子供ができても、自分の家族よりも実親にとらわれて、自分たちはちっとも幸せになれないということになったにちがいない。

 自分の幸せを求めるエネルギーよりも、親の幸せを求めさせられるエネルギーの方が強かった。
 子供自身である自分の幸せよりも、「親の幸福」を優先するのが「よいこ」であると強迫的に信じ込まされてきた。また、そう思わずにはいられないほど、親たちの「だれかわたしを幸福にしてくれ、安楽にしてくれ」という「悲鳴」がひどかったということにもなる。
 思えば、父方の祖父も祖母も父も母も、言葉にならない次元で「わたしだけを一番大事にしろ。わたしだけは幸せになるようにしろ」というエゴ丸出しのメッセージを日夜わめき続けていたのだ。

 私はその毒電波のような原家族メッセージに支配され従わされてきた結果、こんな年になり、もはや家庭を持つことなど考えられないようになった。

「子供の幸せが自分の幸せ」という、健康な親の幸福観とは、なんとかけはなれた機能不全家庭のありようよ。

 本当は「自分らしい自分の幸せ」が、「親の幸せ」であり、本当の「親孝行」なのだと想う。親のエゴに支配され犠牲になるのは、むしろ親不孝である。親が自分のエゴで子供を犠牲にしたら、それは親の親、さらにはその親世代に対しても親不孝、いな先祖不孝となる。

 自分たちの病んだ親たちだけでなく、父方・母方とみていけば、祖先には健康でまともな機能正常な親たちもいたはずだ。
 その健康な祖先たちに対しても不孝となる。

 お盆の墓参りをしたせいか、そんな風に感じられてならない。

 


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by ecdysis | 2016-08-20 02:27 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)