座禅をはじめて気づいたこと

 春の彼岸を迎えているが、私は今月から、「修証義(しゅしょうぎ)」とともに、さる高名な曹洞宗の禅師が昭和13年(1938年)に出された書籍の復刻版を読んでいる。そこに座禅の仕方が親切に書いてあったこともあり、自分で座禅の真似事を初めている。アルコール依存の自助団体の回復プログラムにも、瞑想と祈りが依存症からの回復に不可欠であると書かれていることを気にし続けてきたが、瞑想の仕方を教わる機会がなかったので、思い切って独習をはじめた。 

 本当は、近所の禅寺の座禅会にでも行けばよいのだろうけれど、そこまで時間と労力を費やせない。また、本に書いてある座禅の仕方が初心者でもすぐにできるような詳細で懇切な手引書なので、自分でもできそうに思えたから、やってみることにした。禅師の書かれた文章には「座禅を好きになることが肝要」とあり、その勧めの言葉に心が動かされた。

 座禅の結果、何が起こったかは、ここですべてを書くことはとてもできないが、予想しない良い内面の変化があったことは確かだ。仕事や日常生活で起こるいらいらや、人を責めたり他人のささいな言動を苦にして気に病む頻度が減ってきた。
 座禅中は静かな気持ちになれる。いやな記憶がよみがえるとか、別の自分が爆発するとか、そういうことはまったくない。いろんな感情が渦巻き反応している日常生活の雑念や精神的な騒音が消えるか、かなり低いレベルに下がる。自分がひとりで静かに座っているだけという事実を淡々と感じて受け入れるだけだ。いわば、いつも他人や物事や過去の記憶にとらわれ支配されひとときも休まない心が休止モードに入る感じだ。たかだか10分から20分程度の座禅でも、欲や恐れや不安や快苦の感情に、高速で回りっぱなしの心のモーターが静かな低速回転になっていくようだ。

 ACとしての自己の認識にもこれまでより深いレベルでの視座が生まれつつあるのを感じる。

 そのひとつが「アディクションは、本人が言葉にしたくてもできなかったことや、言葉にすることを恐れている感情の表現手段のひとつである」ということだ。家庭での悲惨な体験の記憶にともない、怒り、恐怖、不安、パニック、絶望、だれか助けてと叫びたかった強迫的な感情など、自分でも忘れているインナーチャイルドの感情を、いわばアディクションで狂っている自分の姿を通して、だれかに伝えたいしわかってほしいというメッセージを発しているのだ。

 健康な家庭では、ネガティブでもポジティブでも自分が感じた感情を、家族に話して共感や受容を与えてもらえる。しかし、AC家庭では、そんなことはまずありえない、当たり前のことを願っても虐待され拒絶され圧殺される。不当ででたらめなことを嫌だと思っても強制され従わせられ強迫される。

 私もそうだが、「こんなのいやだ」「あんたらまちがってる」「こわすぎる」「みじめすぎる」「痛い苦しいこわい」「やめてやめてやめて」「ふざけるな」「おまえなんか父親じゃない」などなど、自分でも忘れているトラウマ原体験のときに感じた感情のすべてが自分の中にそっくり残っている。忘れていることと消え去ることはまったく別のものである。忘れていてもあるものはあるのだ。

 どんなに押し込めてもあるものはある。そして、あるからには外へ出ようとするし、表現への欲求が生じる。だれかに伝えずにはいられず、だれかにわかってもらいたいと欲せずにはいられない。それがインナーチャイルドの本心であり、本音なのだ。だからこそ、医者やカウンセラーや自助団体などで、自分の過去にあったことや過去に感じた感情を話したり書いたりして表現することが必要なのだ。ACの回復には「自分の過去現在の心と感情を表現すること」は不可欠の最重要項目といってもいい。飽きるまで表現していくことで変わっていける。

 そして、もうひとつ気づいたのは、アディクションは原家族の中に蔓延し習慣化していた不条理や過ちや罪悪や非常識さの象徴行為ということだ。私のようにアルコール依存と人格障害の大人たちの狂った感情を、日常的に生活の一部にしてきた子供は、大人になってもその「狂気」「異常性」を、無自覚のうちに生活の一部にし続ける。いわば、親や家族からの負の遺産というか負の目に見えない家財道具を持ち運びして生きるようなものだ。

 だから、健康な人たちからは、狂っていたり異常であると思われるような事柄でも、AC本人にとっては、それが「原家族では当たり前だった習慣であり生活の一部だった」ために、本人には本当には自覚できないし、それのない生活も想像ができない。直せといわれても病気だと指摘されても、自分では「あたりまえのこと」「それのない日常など考えたこともない」ので否認や無視をするしかない。飲めば泥酔が当たり前の家庭で育った私が、酒を飲むということはイコール泥酔することだと信じて疑わなかったのもその一例だ。

 そして、それが問題だと気づいても、当たり前の習慣となっていたことを苦痛なしに手放すのはきわめて困難だ、
 良くない習慣や狂気じみた言動でも、いざ手放してやめたときに襲ってくる孤独感や惨めさや寂しさは耐えがたい。やめたときのよるべなさや抑うつには、筆舌に尽くしがたいものがある。

 それらの問題を「よごれたもの」とすれば、それらから開放された生活は「清らかなもの」といえるだろう。
 汚れたものがあって当たり前だった生活から、よごれたもののない清らかな生活に移るのは、AC本人にとってはそう簡単なことではない。きれいな部屋の方が気持ちいいはずだと普通は思う。しかし、ゴミだらけで掃除などろくにしない部屋で育ってそれが当たり前だと信じて大人になった人は、ゴミを片付けてしまったら非常に居心地の悪い寒々とした感覚になってしまうだろう。

 少なくとも、清らかなものよりも、よごれたものの方に親しみを感じ、あって当たり前と思ってきた。だから、清らかなものは、それの価値を頭では理解するけれど、慣れた感覚がついていけない。よごれたものがないと寂しいし物足りないし、あるべきものがない感じがして、強い違和感や居心地の悪ささえ感じるのだ。

 だからこそ、瞑想などを通じて、よごれたもののない精神状態を感じることを習慣づけて、清らかな健康な生活に慣れていくことが必要だと思えてならない。



トラックバックURL : https://ecdysis.exblog.jp/tb/26520792
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
削除用パスワード
by ecdysis | 2017-03-22 02:05 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)