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ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com


by 心炎

当たり前のことが当たり前に認知できないACの認知障害

 三十年も前に、あるカルト教団に入信したのをきっかけに、その教団とは関係のない一般の学者の書いた般若心経の解説本を読んだことがある。その中で、著者の知り合いがうつ病になったとき、一人の友人が「水面に映った月は波に揺れるが水の底にさす月の光は変わらない」というような歌をあげて、それだけを2~3か月ずっと考えさせたら、うつ病が治ってしまったという記事があった。

 当時は、なぜそんなことで治るのかまったくわからなかった。
 とりたてて何の変哲もない光景を詠んだ歌が、なぜ心を癒すのかまったく理解できず、何かの知的遊戯・観念の遊びとしか思えなかった。あるいは非常に高度な深遠な哲理があるのだろうかとも首をひねるばかりだった。

 今、二度目を読了する「修証義講義」の中にも、やはり道元禅師の言葉で「眼横鼻直(がんのうびちょく)」というのがあって、これも最初はよくわからなかった。これは、道元禅師が宋の国に仏法を学びにいって帰国したあと寺を建てるとき、「自分が宋の国で学んだのは、眼が二つ横についていて鼻が顔の真ん中にまっすぐ縦についているのがわかるようになりました。だから他の僧侶のようにいかにも仏法というような経典類は持ってきませんでした」とおっしゃったという禅語のひとつ。

 座禅してみて、いささかでもこの言葉のすごさが感じられるようになったし、それがACの回復にも重要な要素になるだろうと思っている。

 座禅するときは、まず神仏に保護と導きをお願いする合掌一礼をしてから、おきまりの脚の組み方で姿勢を定め、座禅を開始する。最初は雑念が起こるけれどほったらかして、自分の呼吸や下腹部の前で重ねた両手の間に意識をもっていって、視線を90センチほど先に落としてとにかく、座り続ける。そしていまここにいない人のことは考えない。いまここにないものごとについても考えない。過去も未来も考えない。今この瞬間の座っている自分にだけ意識を集中する。それだけを心がける。
 そうしていると、今まであったのに意識していなかったストーブの音や風や外の物音が、いやにはっきりと鮮やかに聞こえてくる。耳に入ってはいたのに、音としてまったく認識せず、聞こえていなかった音たちだ。

 それに気付いたとき、私は自分がいかに日常生活で、ものごとを「あるがままに認識していない」かを思い知らされた。
 いつも心は不安や恐れや心配事や怒りや後悔や恥や、何かの構想や欲や願望の念で回転していて、見ていても見ず、聞いていても聞こえず、さわっていてもさわっていないのだ。

 ACは、特に過去のトラウマへのとらわれと未来への恐れで、「現在がない」「自分がない」人種なので、ことに生き方に支障を来すほど、「あるがまま」からかけ離れている。

 あるがままに見るというのは、当たり前のことが当たり前に認識できるということだ。だから、当たり前のことを当たり前として認識できないのがACなのだ。当たり前のことを当たり前に認識している普通の人たちの中で、トラウマによる認知障害のあるACは、生きづらさを感じて社会不適応を起こしてしまう。

 なによりも痛ましいのは、自分をあるがままに見るということと、自分を痛めつけることの区別がつかないACの人が多いことだ。肉体的精神的に虐待されて育ったので、「生きること=痛めつけられること」と体が覚えている。やることなすことすべて「自分で自分を虐待する行為」になってしまう。

「あるがまま」とは良いところも悪いところも、病的なところも健康なところも同時に認識するということであって「まず自罰と自己虐待ありき」では、とても自己の振り返りなどできるわけがない。

 あるがままに見る訓練をすれば、恐れていたことも恐れるほどのことはなかったとわかってくるし、心配事のほとんどもトラウマからくる妄想だと納得できるようになる。
 私もそうなったが、ACはトラウマによる一種の認知障害を持っていると思ったほうがよい。
 五感のレベルでも、トラウマからくるひっきりなしの妄想で頭は常に多忙で、現実に起こっている現象に適切に対処することが困難になる。

 あるがままの自分、あるがままの世界、あるがままの人間関係・・・その認識こそ、真の自由と個性と主体性に不可欠のものだ。



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by ecdysis | 2017-03-23 01:20 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)