祖母についての棚卸し2(白い自傷行為と盗まれた母の愛)

 私の父方の祖母がどれほど気が狂っていたか、詳しく書けば相当な分量になるのでこの程度しか書けないが、1985年2月に、隣家の井戸に入って自殺するまで、祖母はずっと狂ったままだったし、いま思えば統合失調症も併発していたのではないかと思える。

 とにかく、50年ほど前の段階で、祖母は地元の精神病院に二回入院している。田舎でまだ精神科が珍しく脳病院や気○○い病院などと呼ばれて、入院は村落共同体からの落伍者とみなされ、噂になり指をさされる対象だった。
 そんな背景で当時二回入院して、二回とも同室の患者と喧嘩して強制退院を食らっている。つまり、病院でも手に余るほど重症だったと今はわかる。

 そんな祖母とともに祖父はアルコール中毒で、祖母とはちがった形で嫁である母にハラスメントを働いていた。私の父も、酔って暴れて祖父母を傷つけたが、妻を虐待する自分の親に、そんな形で復讐するしかなかったのだろう。発達障害である父にはそれ以外に方法がなかったのは想像に難くない。

 子供であり孫である私も、当然巻き込まれて生きた。大人の狂気と暴力の戦場で塹壕に身を隠す難民の子のようだった。
 とにかく祖母の機嫌をそこねないこと、怒らせないことが実家で生きる第一条件だった。そのため、私は感情的にふるまうことを幼時から自分で封じざるをえなかった。

 たとえば私が幼稚園時代に、祖母のご機嫌をとろうと、怒っている彼女に、彼女がファンだった三波春夫さんがテレビに出ているのを「ほら、ばあちゃん、三波春夫だよ」とさそって「それがどうした!」とむげにされてショックだった記憶がはっきり残っている。すでにこのとき、どちらが祖母でどちらが孫かわからない逆転状態になっている。
 
 こうした家族関係の中では、私は極限まで自分の感情を抑制せねばならなかった。学校では幸いに成績がよくて先生たちにかわいがられてありがたかったが、家では最悪な日々だった。

 自分の怒りは大敵だった。祖父と祖母と父が、そして後には母自身も加わり、大人たちが憤怒を爆発させるなか、だれかが冷静でなければならなかった。祖母を刺激しないためにも、私だけは怒ってはならなかった。言葉にはならなかったが、自分の感情爆発が、祖母の逆鱗に触れて母をよりいっそう苦しめる結果を誘発することだけは避けねばならなかった。

 つまり祖母は、母を人質にとって孫の私を支配しコントロールしていたのであり、その意味で卑怯卑劣であった。大人になってから、卑劣な行為を働く人間に冷酷なまでに厳しい制裁感情が働き、殺意に近い攻撃的な怒りがこみあげるのは、この頃の虐げられたインナーチャイルドの心が生きているからだ。

 私の実家の家族関係の力学(力動)の中で唯一のシラフの求心点であることを、私は無意識のうちに選んでいたのだ。ACの特徴である「自分をその場になくてはならない人にする」という傾向がすでに学童期からあったのだ。

 最近わかったのは、その家族の力動の中で、私が怒りを爆発させないためにとった発散行動がマスターベーションだったということだ。高校以降かなりの頻度でおこなってきた。高校と大学時代には一日に朝晩一~二回ずつおこなっていた。

 もちろん、そんな私でも、怒りを全く出さなかったわけではない。小学校四年のときには、祖母の名前を黒マジックで書いた木札を、夕方の物陰で五寸釘で棒杭に打ち付けて呪うまねをしたこともあるし、高校三年のときには、祖母と言い合いになって突き飛ばしたり、喧嘩して追いかけられて手の甲を引っかかれたりした。今でも、その傷跡が左手に残っている。祖母が母や私や妹にふるう暴力には、肥った体に似合わぬ素早さで、爪で深く引っかき血を流させるという野獣じみたやり方が普通だったのを思い出す。

 そのような激しいエピソードがたまにある位で、あとは自分で怒りと憎しみを抑圧する方が圧倒的に多かった。
 だから、私にとって怒りのコントロールは、マスターベーションによる自発的去勢に依存してきたといえる。

 それがよくない習慣であることはわかっていたから、社会人になってからそれこそ何十回と禁欲の試みをしてきた。私が女性との直接的な性依存にならなかったのは、この若いときからの禁欲指向があったためだろう。

 だが、この四十年間、すっかりやめたいと思いながら、願った通りにはやまなかった。数日から十日間程度がまんできることも多かったし、一ヶ月以上禁欲できたときも数回あった。だが、逆に頻度が増したこともあった。七~八年ほど前には、仕事上のストレスがひどくて回数が増え、初めて精液に血がまじる血精子症になったほどだ。そこまでひどくなったのはその一回だけだったが、私にそこまでのストレスを与えた女性上司というのが、顔も体型も性格も私の祖母そっくりの人物で毎日がトラウマとの戦いといってよかった。

 ストレス過多時のマスターベーションによる去勢衝動は非常に激しく、抵抗できないところはアディクションといってよい。

 しかし、これは性依存ではないと気づいた。性依存の自助団体にも行ってみたが、自分の依存のあり方とずいぶん違っていることがわかっただけだった。
 しかし、いまこうしてまともに人目にさらしてもよいと覚悟して告白してやっとわかった。
 これは、性への依存ではなく、性的な表現をとった自傷行為への依存なのだと。あたかもストレスによって手首や腕や脚や首をリストカットするように、私は血を流す替わりに精液を流して、自分の精力を去勢してきたのだと。あるいは摂食障害の
人が食べて吐く行為に依存するように、私も精液を溜めて吐き出す行為に依存してきたともいえるだろう。
 従来のリストカットを赤いそれとすれば、私のは、あまり上品なたとえではないが、白いリストカット、または白い自傷行為といえそうだ。

 そして、私はついに19歳のとき祖母に憎悪と殺意を抱いた理由の本源に気づいた。
 私の中のインナーチャイルドの怨恨(ルサンチマン)は、「母の愛を横取りされた怨み」だったのだ。
 先に書いたように、祖母は幼稚園児の私よりも幼児化していた。
 そんな祖母にふりまわされ支配され、妨害と圧迫を受け続け、私も妹も母に甘えることができなかった。
 母が本来、子供にかけるべき関心も配慮も、大半が祖母に持っていかれ、私たちは母が意図せずしてネグレlクトの状態に置かれた。孫が当然与えられるべき精神的な母乳を、祖母に横取りされ愛情の飢餓状態にさらされたのである。情緒的な栄養失調である。

 子供が親からもらうのは、肉体的な母乳だけではない。はぐくみ見守る愛情とこまやか配慮と受け止めと対話など、子供を肯定する言動や態度という精神的なミルクも不可欠なのだ。

 肉体的に飢餓状態の続いた幼児だった人は、成長してもさまざまな身体や脳の障害や不全という後遺症が残る。
 私は、精神的な意味でそれだった。母親の愛情と関心という栄養を祖母に盗まれ続けて、精神的・情緒的な後遺症が残った。それが思春期に熾烈な憎悪や殺意や復讐心になっても不思議はない。

 それが、私のアダルトチャイルドという状態であり、アルコールなどのアディクションということなのだ。

 もちろん、盗まれた母の愛は、もはや取り戻すことはまったく不可能だ。
 それを、祈りと瞑想によって、より大きな人間を超える存在に願って得られるだろうことを、私は信じている。

 自分に正直に、忍耐強く、あきらめずにいれば、回復の機会が与えられるときが必ず来る。そう信じていれば、時間はかかっても必ずよくなる。私はそう信じている。これまで、そのただひとつの「やめたいという意志を持ち続けていれば、何年かかっても止められるタイミングが必ず与えられる」という信念で、私はこの30年あまりで「タバコ」「酒」「占い」「抜毛」の依存をやめてきた。

 そのプロセスで、母の愛に飢えて育った私の心の奥底に、いつしか育っていたひとつの言葉がある。

「世界は愛に満ちている。まだそれに気づいていないだけだ」と。

 この言葉を、いつ本当のことだと実感できるようになれるか、私にはわからない。
 だが、そうなりたいと願うことをやめなければ、いつかはそうなれると信じよう。


 
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by ecdysis | 2017-04-29 02:22 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)