2017年 09月 09日
悲哀から逃れるために快楽を求めたがそれも偽りだった
しかし、最近、思い返すのは、さらにさかのぼる1年前、高校に入学した頃に汽車通学していたころ、私はひどい憂鬱と悲哀の感覚に襲われ続けていたことだ。当時、自分ではセンチメンタルな性格が過度に表れているとしか思えなかったし、最近まで、それも思春期鬱の症状がはじまっていたと解釈していた。
しかし、座禅をしながら、私はその「悲哀」が、もっと自分の人生そのものの本質を感じ取っていたのではないかと考えなおしている。
とにかく、ひどい悲哀だった。何が原因かもわからなかった。ものに感じやすいといったレベルではなかったように思う。
毎朝、明るくさわやかなはずの東北の春景色の菜の花や桜や水田の早苗の光景の中を、汽車にゆられて通学しながら、私は理由なき悲哀にうちのめされていた。
菜の花も桜も初夏の緑も、何もかも悲しかった。見るもの触れるもののほとんどが、私に悲哀を起こさせた。それが学校の古典で平家物語や方丈記を読むにおよび、その無常観に涙した。
けれども、それこそ少年のセンチメンタリズムであって、無常ということが本当にわかっていたわけではない。
いずれにせよ、私はすでに十五歳にして「自分は何もかもなくした」という根拠のない悲哀と挫折感にとりつかれ、それを振り払うすべさえなかった。これから大人になって、いろいろなものを得ていくべき少年が、「もうすべては失われてしまった」というまるで老人のような喪失感と挫折感の悲哀に染め上げられていた。
もちろん、ひどい家庭環境によって絶望感を与えられ続けてきたことも、大きな原因だったと思う。
しかし、あれから四十年以上をけみして、改めて振り返って感じるのは、私はこの世界が自分の願っている世界とはまったく異なる異世界であり、これからずっとその違和感を抱きながら、異邦人としてしか生きられないということを予感してしまったのではないかということだ。
この「異邦人感覚」は、アダルトチャイルドによくある「人と自分はちがっている」という感覚でもある。
ただ、私と同じく発達障害をもった親に育てられた知人によれば、主治医の診断の中で、発達障害のある親に育てられた子供は、こうした「異邦人感覚」が特に強いのだという。
原因はいかであれ、当時の私の悲哀と挫折感は本物であり、手の施しようがないものだった。
その悲哀と異邦人感覚をなんとかするために、私は飲酒と恋愛・性愛依存に陥っていった。
悲哀と違和感を埋め溶かしてくれるための酔いと快楽が必要だったし、酔いと快楽においては他者と同しであると感じたかったし信じたかったのだ。
しかし、やがてそれも普通の人たちは酔いや快楽を、逃避や否認や麻痺のために病的なまでに求めることはしないということがわかって、結局、同じにはなれないのだと知るにいたった。
その病的依存のもととなった「快楽」について、この10年の間に、私は「快楽=善、苦痛=悪」という二元論で生きてきたことにやっと気づくことができた。さらには「絶頂感・陶酔感」こそ、あらゆる依存症者の求める究極点であることに気づいた。
この絶頂感をほかの言葉でいえば「何もかも忘れられる快楽」ということになるだろう。
実は、アルコール依存はとまっているがギャンブル依存のとまっていない知り合いが、「パチンコしているとなにもかも忘れられる」といっていたことから、「依存症者の求める絶頂感は、何もかも忘れられる状態になることを意味する」と学んだ。
そして、この「何もかも忘れられる」ということこそが、依存の原因と動機であり、最近ではそれは「何もかも忘れられるという幻想」に過ぎないと感じられる。
なぜ「何もかも忘れられる」ことが幻想かというと、「何もかも忘れるのは一瞬であり、それが過ぎれば、絶頂に達する前にもっていたあらゆる悩み苦しみこだわりととらわれがそっくり戻ってくる。絶頂が過ぎれば、何も解決しておらず、再度それを忘れようとして絶頂感を求めることを何度も繰り返す」だけだからだ。
「何もかも忘れられる絶頂感」など「ほんとうは無い」のだ。あると思い込み信じ込んでいるから、何度でも一瞬の絶頂を求めるが「100%の快楽」「完全無欠の快感」など、この世に存在しないと最近、やっとわかってきたからだ。
泥酔したり麻薬などを使っていれば、一瞬よりは長い時間、何もかも忘れた時間を過ごせるかもしれないが、それは問題を先延ばしにしているだけで、事態をより悪くすることはあっても善い方に変えることはありえない。
つまり、一定の時間の範囲で見れば、「何もかも忘れられる快楽」というのは一瞬以外にはないわけで、それ以上の絶頂時間の長さを求めることは不自然であり、結局、不快で病的な反動が起こって台無しになる。
たとえば、淫らな欲情を煽る小説やマンガやアニメやアダルト動画では、あたかも性的快楽の絶頂を長続きさせるテクニックや方法があるように描写しているが、いまさらいうまでもないが、そんなものはつくりごとのまったくのフィクション、うそっぱちである。
酒や薬物やギャンブルでも「(本人にも周囲の人たちにも何の悪影響もなく純粋に)何もかも忘れられる」というのは、まったく同じ「つくりごと」「うそっぱち」である。
よくいわれるが、夫婦恋人間の普通の性行為においても、女性の方が「感じているふり」をして男性のプライドが傷つかないようにするとか、性的な絶頂感を感じたことのない主婦も予想外に多くいるという。
普通の正当な性行為の関係においてすら、このような「演技」が必要だとしたら、それを見抜けず自分はセックスが強いと思って喜んでいる夫や男性群は、おおまぬけのおめでたい人々だということになる。
私は、いっさいの心配ごとやひっかかりや不安や気づかいなしに浸れる「快楽」があると思い込んできた。それこそ、「純度100%の何もかも忘れられる快楽」があると信じて疑わなかった。
だが、正常で健康な生活・健全な人間関係の中では、そういう快楽はないのが普通だし、そういうものを求める必要もない。
たとえ、セックスの最中であっても、酒盛りの間でも、人はそこで感じる快感だけに没頭できるものではないのが普通だ。
愛する異性とキスしながらも、乾杯の歓談の時を過ごしながらも、頭の隅では、何かを考え何か快感以外のことを感じ、相手やまわりの人を気づかい、観察したり判断したり、八割は行為に集中していたとしても、残り二割はそうではない。その二割を雑念と呼ぶ人はいるであろうか?
しかし、依存症者は「100%の快楽と陶酔で何もかも忘れる」ことが目的なので、八割では満足できない。二割を他の感覚に割くことは排除すべき「雑念」となる。
そういう依存症者を、そうではない人たちはどう見るかといえば「自分のことしか考えていない」と映る。
当然のことだが、100%の陶酔には、他人のことを気つかうとか配慮とかの感情は無用であり、むしろ邪魔であるのだから、純粋に自分のことしか考えないという姿勢でなければ「何もかも忘れられる」状態にはなれない。
その結果、依存症者はエゴイストという結論になる。自分にとっての純粋な快楽を求めれば求めるほど、それはエゴイストの度合いを強めていくのだ。
つまり、何が悪いかといえば、私もそうだが「完全無欠の幸福感」「純粋な陶酔感」「100%の絶頂感」があると信じて、それを繰り返し味わおうとすることが問題なのである。
事実は、そういう完全な快感は、この世にないということであり、それがあるというのは偽りで作り事で、それが体験できたとしてもその代償は恐ろしく高くつくし最期は破滅にいたる悪魔の罠にほかならない。

PEやEMDR などのトラウマ治療を検討してみるのもいいかも知れません。私の個人的な経験ですが、男性は特にトラウマを癒して良いと思えず、我慢することを強いてしまうことが多いように感じます。
