愛の飢餓にさいなまれる青少年だった
2017年 09月 19日
このごろ、思春期から青年期にかけての自分の記憶と意識が活性化している。
ひょっこり思い出すことや切ない感情や、当時の激しい欲望などがまざまざとよみがえってくる。
実は、神様にむかって、思春期や青年期の心をどうか癒してください、その傷を治してくださいと祈ってからこうなった。
それにしても、中学2年の頃から、二十歳代の半ばまで、私はなんと愛に飢え渇いていたことだろうかと思う。
神の愛や友愛は、あるらしいがどういうことかわからなかったし実感できなかった。
肉欲をともなう異性愛しか見えなかったし目がくらんでもいた。ひどく狭い危うい愛に、それとは知らずに自分の未来と希望を賭けていたといっていい。
愛されたかった。猛烈に愛されたかった。だが、それを表現するすべがなかった。好きになった相手に告白しても、突然すぎて相手を面食らわせることばかりだったように思う。なにげなくデートに誘うとかできなかったし思いつかなかった。
自分はどこへゆけばいいのか、なにをなすべきなのか、何もわからない彷徨の渦中で、同じく渦に巻き込まれる異性がいるにはいたが、そういう人が精神的情緒的に健全であるはずもなかった。
愛と信じた欲情の渦は短く、すぐに消えてしまい、すぐに他人になる。
だが、愛されたくて愛されたくて、たまらなかった私は、異性に惚れられさえすれば自分は幸せになるのだという呪文を信じていた。それしか思いつかなったのだ。新約聖書を読んでキリストの説く愛とはどういうことか知るための試行錯誤ははじまっていたが、青年の実感できる愛は、やはり恋愛しかなかった。
どれほど望んだだろうか、激しく熱く濃厚に愛されることを。その異性愛の飢餓は、思春期と青年期を通じてずっと私の中で猛りほえていたのだ。
熾烈な情欲と禁欲志向との葛藤は、その頃から始まっている。
それは、青年の孤独と劣等感と低すぎる自己評価が原因だった。
恋愛にも結婚にも、すなわち異性愛に対しては、過剰な期待と希望を抱きすぎて、それはついに妄想のレベルにまで達していたということだろう。
それにしても、なんという胸苦しい記憶であることか。恋愛も結婚も変化のひとつに過ぎず、無常の現象のひとつでしかないと認識できるようになったからいいものの、そうでなければこの煩悩は出口を失ったままだったろう。
私は、自分が何を求めているのかまったくわからず、肉体と自我の欲望だけを基準に愛をもとめてしまったのだ。
だが、この年になってやっと自分が求めている愛がなにものであるか、輪郭が見えるようになってきた。
それは「変わらない愛」「別離のない愛」である。「永遠の愛」といってもいい。それは、どんな恋愛にも結婚にも家族関係にも人間関係にも存在しない愛だ。どんなに深く愛し合っても、やがて死が二人を分かつ。結婚式でよく「永遠の愛」「二人の愛だけが真実」という言葉や歌がお祝いとして放たれるが、それはありえない不真実である。
そして、やっと最近、この「永遠の愛」に属する愛は、肉欲とは異なる次元に意識を向けなければ感知できないのだと悟った。
それは、目に見えない次元では、「すでに永遠の愛につながっている」というのが事実ではないかと思えているからだ。
愛する異性とセックスしたり結婚したり交際しないと、それは愛し合っているとはいえないと、普通は思う。
だが、そうではない。神や目に見えない大いなる意志を意識し、相手の幸福を祈り願うという次元において、すでに私とその相手の人は縁ができており、肉欲や恋愛を介していない分だけ、友情や家族愛に似た親密感が永続する。よしんば、それが恋愛に移行したとしても、根底には「永遠」があるから病的な依存にはならない。
男女の間に友情は成立しないとよくいわれる。恋愛中心で考えれば、それは事実だろう。
しかし、霊的な意味においては男女間でも友情は成立する。
そして、私は以前は肉欲とその快楽の結果は、いわゆる「絶頂感」だと信じた。それは昇りつめるものだと信じていた。
しかし、実際は違うと悟った。肉欲の結果は絶頂でも昇天でもない。むしろ、地下トンネルを疾走し、しまいには行きどまりにつきあたるものなのだと知った。行きどまりの限界のある、それ以上は望んでもありえない感覚でしかないのだ。
青年時代の私にとって「愛している」は「セックスしたい」の別表現であった。それが偽らざるところだ。
それは、異性が恋愛・肉欲の対象としか考えられなかったからだし、男性としてそれが当たり前だと思い込んでいたからだ。
だが、いまはちがう。もっと広く永遠に近い愛を持ちたいと思う。
愛されたいという飢餓状態は、人のために祈ることを覚え、できる限り無償で人のために役だとうと思うようになってから、私の中から少しずつ消えていったように思う。
そういう傾向が強くなってから、私の中からいつしかわいてきた言葉が、私に永遠の愛を探求することを促し続ける。
「あなたはすでに愛されている。それに気づかないでいるだけだ」
この言葉が、私の人生の大きな謎となり、その謎を少しずつ解くたびに、私は自分を縛ってきたものがはずれて自由になっていくのを感じる。
その解けた答えのひとつは「空気を吸えていること、水を飲んで渇きをいやせること、地面に立っていられること。この三つだけでも愛されている証拠」ということだ。
「存在していること、すなわち愛されていること」ということを、もっと徹底して悟ることを要求されているのかもしれない。
ひょっこり思い出すことや切ない感情や、当時の激しい欲望などがまざまざとよみがえってくる。
実は、神様にむかって、思春期や青年期の心をどうか癒してください、その傷を治してくださいと祈ってからこうなった。
それにしても、中学2年の頃から、二十歳代の半ばまで、私はなんと愛に飢え渇いていたことだろうかと思う。
神の愛や友愛は、あるらしいがどういうことかわからなかったし実感できなかった。
肉欲をともなう異性愛しか見えなかったし目がくらんでもいた。ひどく狭い危うい愛に、それとは知らずに自分の未来と希望を賭けていたといっていい。
愛されたかった。猛烈に愛されたかった。だが、それを表現するすべがなかった。好きになった相手に告白しても、突然すぎて相手を面食らわせることばかりだったように思う。なにげなくデートに誘うとかできなかったし思いつかなかった。
自分はどこへゆけばいいのか、なにをなすべきなのか、何もわからない彷徨の渦中で、同じく渦に巻き込まれる異性がいるにはいたが、そういう人が精神的情緒的に健全であるはずもなかった。
愛と信じた欲情の渦は短く、すぐに消えてしまい、すぐに他人になる。
だが、愛されたくて愛されたくて、たまらなかった私は、異性に惚れられさえすれば自分は幸せになるのだという呪文を信じていた。それしか思いつかなったのだ。新約聖書を読んでキリストの説く愛とはどういうことか知るための試行錯誤ははじまっていたが、青年の実感できる愛は、やはり恋愛しかなかった。
どれほど望んだだろうか、激しく熱く濃厚に愛されることを。その異性愛の飢餓は、思春期と青年期を通じてずっと私の中で猛りほえていたのだ。
熾烈な情欲と禁欲志向との葛藤は、その頃から始まっている。
それは、青年の孤独と劣等感と低すぎる自己評価が原因だった。
恋愛にも結婚にも、すなわち異性愛に対しては、過剰な期待と希望を抱きすぎて、それはついに妄想のレベルにまで達していたということだろう。
それにしても、なんという胸苦しい記憶であることか。恋愛も結婚も変化のひとつに過ぎず、無常の現象のひとつでしかないと認識できるようになったからいいものの、そうでなければこの煩悩は出口を失ったままだったろう。
私は、自分が何を求めているのかまったくわからず、肉体と自我の欲望だけを基準に愛をもとめてしまったのだ。
だが、この年になってやっと自分が求めている愛がなにものであるか、輪郭が見えるようになってきた。
それは「変わらない愛」「別離のない愛」である。「永遠の愛」といってもいい。それは、どんな恋愛にも結婚にも家族関係にも人間関係にも存在しない愛だ。どんなに深く愛し合っても、やがて死が二人を分かつ。結婚式でよく「永遠の愛」「二人の愛だけが真実」という言葉や歌がお祝いとして放たれるが、それはありえない不真実である。
そして、やっと最近、この「永遠の愛」に属する愛は、肉欲とは異なる次元に意識を向けなければ感知できないのだと悟った。
それは、目に見えない次元では、「すでに永遠の愛につながっている」というのが事実ではないかと思えているからだ。
愛する異性とセックスしたり結婚したり交際しないと、それは愛し合っているとはいえないと、普通は思う。
だが、そうではない。神や目に見えない大いなる意志を意識し、相手の幸福を祈り願うという次元において、すでに私とその相手の人は縁ができており、肉欲や恋愛を介していない分だけ、友情や家族愛に似た親密感が永続する。よしんば、それが恋愛に移行したとしても、根底には「永遠」があるから病的な依存にはならない。
男女の間に友情は成立しないとよくいわれる。恋愛中心で考えれば、それは事実だろう。
しかし、霊的な意味においては男女間でも友情は成立する。
そして、私は以前は肉欲とその快楽の結果は、いわゆる「絶頂感」だと信じた。それは昇りつめるものだと信じていた。
しかし、実際は違うと悟った。肉欲の結果は絶頂でも昇天でもない。むしろ、地下トンネルを疾走し、しまいには行きどまりにつきあたるものなのだと知った。行きどまりの限界のある、それ以上は望んでもありえない感覚でしかないのだ。
青年時代の私にとって「愛している」は「セックスしたい」の別表現であった。それが偽らざるところだ。
それは、異性が恋愛・肉欲の対象としか考えられなかったからだし、男性としてそれが当たり前だと思い込んでいたからだ。
だが、いまはちがう。もっと広く永遠に近い愛を持ちたいと思う。
愛されたいという飢餓状態は、人のために祈ることを覚え、できる限り無償で人のために役だとうと思うようになってから、私の中から少しずつ消えていったように思う。
そういう傾向が強くなってから、私の中からいつしかわいてきた言葉が、私に永遠の愛を探求することを促し続ける。
「あなたはすでに愛されている。それに気づかないでいるだけだ」
この言葉が、私の人生の大きな謎となり、その謎を少しずつ解くたびに、私は自分を縛ってきたものがはずれて自由になっていくのを感じる。
その解けた答えのひとつは「空気を吸えていること、水を飲んで渇きをいやせること、地面に立っていられること。この三つだけでも愛されている証拠」ということだ。
「存在していること、すなわち愛されていること」ということを、もっと徹底して悟ることを要求されているのかもしれない。
by ecdysis
| 2017-09-19 08:06
| アダルトチルドレン・依存症
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