健全な生活に敬意をはらおう


 私は、アディクションに走らずにはいられない激しいストレスが起こったとき、アディクションに走ってもいいという、ちゃんと言い訳を用意しているのがわかった。
 ほかに健全なストレス解消法はいくつか知っているのに、あえてそれを選ばずにアディクションによる解消を選ぶ。
 その道筋が見えた。

 要するに、私は健全な生活というものを信じていない。人間とはすべて不健康で不健全なものであり、健康な生活をしているように見える人たちも、一皮むけば不健康な悪癖を持っているはずだと思っているのだ。幸福そうに見える人たちも、何か大きなストレスや問題があれば、酒やギャンブルや暴力や、そのほか不健全で人道にもとるようなことをやっているはずだと思っている。

 人間なんて一皮むけば、何かあれば悪質で偽善者でエゴイズムむき出しの存在になるのだから、健全さだの善性だの、そんなものはうわべだけだと思い込んでいる。
 健全さなど表面的なものだから、そんな偽善的な方法ではなく、自分の欲望に忠実なアディクションの方が正直だと思っている自分がいる。しかし、そのアディクションは正直というよりは、ぶざまでみっともなく、あさましくてしかもエゴイズムむき出しの恥ずかしい行為なのだから、健全な方法を否定したからといって何もよくならない。

 いや、自分がアディクションの原因となるストレスを健全な方法で解消できるということ自体を信じていないのだ。
つまり、アディクションに関して健全になる気がないし、あきらめている。

 掘り下げれば、ものごとを健全に正常に保とうとする人間を信じていないし、世界を信じていないし、神を信じていない。

 少なくとも自分に激しいトラウマを与えた家族たちやまわりの大人たちの姿を理由に、人も世間も世界も神も信じるに値しないと思っている。健全で健康で幸せそうな光景なんて、うそっぱちのニセモノだ、そんな見た通りの幸福や健全さなんてあるわけがない。
 そう。それは正しい。私が育った環境はまさにそうだったから、信じられないのは当然だ。

 しかし、自分が体験していないからといって、「無い」と断定するのは傲慢だ。

 そして、私に欠落しているのは、「健全な生活の実現を信じること」であり、なによりも「健全な生活に敬意をはらう」ということだ。頭から否定して「あるわけない」と切り捨てるのではなく、「あるかもしれない。それを信じて実現に向けて敬意をはらってやってみようじゃないか」という姿勢に切り替えよう。

 信じるということは、敬意を払うということだ。私の父方の祖父母や父親たちも、健全な生活を信じなかったし敬意をはらうことがなかった。いわば性悪説で生きていた。

 だが、トラウマで激しく傷ついた子供の私は、彼らにこう問いかけている。

「人間って、そんなに悪いものなの? 世界ってそんなに悪いものなの? 神様って信じちゃいけないの?」

 私の内なる子供が、内なる祖父母に問いかける。真顔で問いかける子供のまっすぐな問いに、祖父母は赤面するにちがいない。
 そう思えば、私の中に家族がいて、生まれた家のいざこざをそのまま温存しているようだ。さまざまな性悪説を信じる父方の大人たちのキャラクターと、母方の祖父母のような性善説を信じるキャラクターたちが、両方、私の中にいる。

 その意味では、私は実は私という一個人ではなく、父方・母方双方の家族の遺志というか複数の家族の人格の複合体ということもできる。私は、私であって、同時に父方の人々でもあり母方の人々でもある。

 それらの、相矛盾した統合困難な複数の人格が同時に存在して、一個の個人の形をとっている私が、心の病におちいったのは当然であると改めて思う。

 だから、とにかく真理真実に敬意をはらい、世界を世界たらしめ、人類を人類として存続せしめている大いなる人知を超えた力を信じよう。お互いを傷つけあい恨んだり憎んだり妬んだりしかできなかった内なる性悪説の人格たちに、「お互いの欠点ばかり見るのはやめましょう。長所もよいところもあるのですから、ちゃんと見ましょう。自分に見えないからといって無いと思い込むのはまちがっています。それは不幸なことです。健全で幸せな暮らしもあるのだと認めましょう」と告げてみよう。
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by ecdysis | 2017-10-23 04:05 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)