深奥の自分の感謝の念に驚く

 今年の夏の終わりに、私は座禅しながら、自分が、次の瞬間に死ぬとしたら、どういう気持ちで死ぬことになるだろうと真剣に想像してみた。本気で、明日には死ぬという前提で、いろんな人々やいろんな出来事を思い出し想いをめぐらせた。
 そして、いよいよ最期の最期という臨終のときの想いにたどりついたとき、そこには思いがけない感情があった。

 なんと「感謝」の想いが大きく広がっていることに気付いた。われながら、予想もしない反応だった。脳裏に浮かぶ、いろんな人たちに、それぞれに「ありがとう」という念が起こっていた。

 驚いたことに、それはいま現在、こだわりや怒りや葛藤を抱いている相手に対してすら、「いろいろあったけど、ありがとう」という念をもっていた。では、その「ありがとう」「感謝」の内実は何かというと、私に利益や善いことを与えてお世話してくれたから感謝というのではなかった。もっと根本的な次元における「感謝」だった。

 それは、今現在私が気にくわない嫌いな相手に対する不思議な感謝の正体をさぐったときに明白になった。
 私の深奥の声の主は、その嫌いな頭にくる相手に対して、こういっていたのだ。

「かかわってくれて、ありがとう」

 文字だけで見るときれいごとのように感じるかもしれないが、これは私が感じた本当のことだ。
 どうも深奥の自分にとっては、私と相手との関係性が、家族・友人知己であろうと、敵・味方であろうと、たとえ加害者・被害者の関係になろうとも、重要なことではないようだ。

 どういう関係になったかにかかわらず、私の中の深奥の存在は、「かかわってくれたこと自体に感謝する」といっている。
 それも、「相手をしてくれてありがとう」というニュアンスが濃厚な「ありがとう」なのだ。

 そこから、感じる対象を広げてみたら、死ぬまぎわの私はいろいろなものに感謝していた。身の回りのものや雑貨や自然の動植物はもちろん、私が生涯で見聞きし五感で感じられた存在すべてに「ありがとう」をいっていた。

 私は、小さな一人間という存在だが、もろもろの天地自然や人間社会の要素のひとつである自分が、自分以外のすべてのものごとに感謝していた。この世界に存在するすべて、おのが人生体験で関わったすべての人に感謝の想いがわいた。

 その関係性の現れ方の善悪・美醜・好都合不都合を問うことなく、無数の存在のつながりに感謝し、その一部、一要素として存在を許されてきたこと自体に感謝がわいた。

 こういう不思議な感覚の経験をして一か月もしないうちに、私はくだんの嫌いな気にくわない相手と再会した。なぜか、彼はとても機嫌がよく、私とのわだかまりなどなかったかのように、明るい態度で接してくれて、私はキツネにつままれたような気になった。
 いったい彼に何がおこったのか、何がどう作用したのかわからないが、関係性が変わったことだけは確かなようだ。

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by ecdysis | 2017-10-28 00:18 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)