見かけほど、みんな幸せじゃありません、という年末年始

 休日用の自宅の食品の買い物をスーパーでしていると、早くもクリスマスソングが流れてきて、毎年のことだが不安と罪悪感と取り残された感覚が生じて不愉快になった。

 だが、数分後には私は、半分怒りながら、こう思っていた。

「なんなんだ。このクリスマスソングの幸せモードの押し売りは。クリスマスは万人が一人残らず幸せでなければいけないとでもいうのか」

 そう思いながら、私は自分の不愉快さの原因が、今まで言葉にならなかった「年末年始幸せ家族強迫症」とでもいうべき心理にあることを、初めて自覚した。
 確かに、年末年始は家族そろって幸せな雰囲気でいる方が望ましいにきまっている。しかし、それを「そうあらねばならぬ」と義務観念として強迫的になっていたのだ。それなら毎年、同じ時期に苦しむのは当然だ。

 この幸せ家族強迫症がどこからきたのかもすぐにわかった。亡き母である。
 日常的に喧嘩口論、暴力が絶えなかった私の生家で、せめて年末年始ぐらいは静かで平穏であってほしいと、母は常々嘆いていた。もちろん、母が望んだような平穏で満ち足りた年末年始など、ついぞなかったのであるが。
 それが、いつのまにか自分の中で「年末年始だけはこうあるべき」という強迫的な観念になってゆき、クリスマスに幸せ家族ができない自分を悲しみ哀れむようになっていったのだ。

 これは年末年始だけでなく、バレンタインデーや誕生日やその他の、いわゆるアニバーサリーも、それに順じるわけで、これはこれで「幸せカップル強迫症」があるわけで、家庭と同じく自然に記念日をお祝いできれば、本来それでいい。何がなんでもお金を払ってレンタル恋人をやとってまで、幸せカップルを演じる必要はない。
 こうして書いてみると、幸せ家庭や幸せカップル強迫症は、他人の目を気にして他人と比べてどう思われるかが大事で、自分がどう感じるかしか視野に映じていないのがわかる。

 この年になってようやく見えてきた。年末年始を平穏無事に過ごしたければ、日頃から平穏無事であればよい。それができない家族なら、私の母のように懸命に料理を作ったり忙しい想いをしてまで年末年始を祝う必要はない。むしろ、家族ひとりひとりが、おかゆをすすって一年を振り返って総懺悔でもした方がはるかにましである。

 この一年への感謝と振り返りなしに、ただクリスマスだ正月だと祝うのなら、年末商戦の空気に踊らされて苦しむだけだと、やっとわかった。

 ともに過ごす相手がいようといまいと、特別なことはあんまりやらずに、感謝と棚卸しの年末にしよう。質素でいい。ご馳走食べたり遠出したりばかりに目が行くようでは、なんだか楽しみに飢えてるみたいで空虚な感じがする。何より他人に見せびらかそうという意図が微塵でもあるような過ごし方はしたくない。

 楽しいときも祝福のときも、人間にはもちろん必要だけれど、その日、その時季だけはそうあらねばならぬと強迫的になるのは、やっぱり不健康だと想う。
 だからといって全く健康でなければならないと思い込むのもちがっているし、きょうび心身ともにまったく健康な人など、中年世代以降はほとんどいないのが現状だ。

 ただ、人と自分を比べるのをやめて、落ち着いて雑踏をながめたい。

「年末年始は主婦は大変なんだよなあ」「年末年始は仕事が休みになるからめでたいんだよなあ」「ふだん会えないひとにあえたり年賀状がくるからいいんだよなあ」などと想っていれば、別に強迫的になる必要もないと思えてくる。

 何がどうめでたいのか、本当の意味を知ってて年末年始を過ごしているかどうか、雑踏の買い物客にたずねても、ちゃんと答えられるひとはほとんどいないだろう。ただ、みんなが祝うから自分たちも祝うだけと回答するのが多数派だと思う。実はそれは、私が感じた幸せ家族強迫症の一歩手前の精神状態でしかない。そう考えると、私がうらやましいと感じた人達は、自分よりちょっとだけましな状況にいるのみで、実は皮一枚のもろい差であると見えてくる。それらの人達もリストラされたり大震災にあったり事故や病気にまみえれば、たちまち今の安定は崩れてしまうのだ。

 所詮、年末年始は人の間の決めごとで、神様がそうしろとおっしゃったわけではない。すべての祭事や神事は感謝と祈りが基本なので、年末年始もそれぬきでケーキやおせちを食い散らかしても、年末商戦の経済効果があるだけで、道徳的倫理的にはまったく意味はない。

 若いころ「なんてうらやましい」と憎むほど羨んだ人たちが経験していた「幸せ」を、いまふりかえってみると、自分が羨んだほど幸せだったわけではなく、もろくて変わりやすくて最初は甘くてすぐに苦くなる類の「幸せ」でしかなかったとわかる。変数の多い方程式みたいなもので、その時々で出てくる値が幸せだったり不幸せだったりする不安定きわまりないものだ。

 蓋をあければ「なあんだ、こんなもんか」という、はかないことや大変なことがほとんどで、うらやましがるほどのことではなかった。

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Commented by うみ at 2017-11-14 19:53 x
こんばんは。
そうゆう強迫観念もあるのですね。
辛いですね。

『~であるべき』とゆうのは一つでも少ない方が少ない方がラクですよね。
わかっちゃいても。。ですけどね。

私は正月やクリスマスなんて楽しみなのは子供だけだと思いますよ。
あとは普段仕事してる旦那もかな。

私は正月もクリスマスも特に嬉しくもないですよ~

家事が増える。。くらいで。

あ、でも、楽しそうな家族を見れたらそれはそれで幸せですね(^◇^)

Commented by ecdysis at 2017-11-14 22:31
ありがとうございます。私の中の傷ついた子供の心が反応しているのはわかっています。ACでない普通の人たちは、当たり前のようにトラウマによる心理的苦痛なしに年末年始を坦々と過ごしているであろうことも。そもそも普通の人たちには、「幸せ=喜びや嬉しさ」という積極的で肯定的な感情なのですね。どうやら、私のACとしての言葉の解釈は「幸せ=苦痛を感じないで済む」という肯定性がとても低い定義になっているようです。
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by ecdysis | 2017-11-14 14:47 | 趣味・私的生活 | Trackback | Comments(2)