本当は蜉蝣(カゲロウ)のようにはかない恋と幸福の幻想
2017年 12月 11日
私は、実らぬ恋ばかりしてきたつまらぬ男である。すなわち凡夫。蜉蝣(カゲロウ)のような恋ばかりしてきた蜉蝣のような男である。うたかたの愛欲の繰り返しによって一体何を得たか? ただ、愛欲の虚しさ、劣情の不毛さだけではないか。すなわち曹洞宗の「修証義」にある「声色の奴婢」(しょうしきのぬび=五感の肉体感覚の奴隷)というものだ。目に見え五感に触れられる欲望の対象である人や物や出来事の奴隷という意味。
私の女性へのとらわれの中には、相手が自分の想った通りに行動しないことに腹をたて、暴力をふるいたくなる感情が瞬間的に沸くということも含まれる。これは、特に年下の若い女性のわがままに振り回された時に起きる特有の感情だ。
瞬間的とはいえ、暴力衝動が起きるということに、自分の父や祖父や父方の親戚たちと同じものを持っている証拠でもあり、情けなく恥ずかしい想いでたまらなくなる。
仏教の輪廻転生観によれば、現在の家族は永遠に家族であるわけではない。今の家族・親戚関係は現世だけの話で、来世は違う人たちと違う家族を構成することになる。同様に過去世でも、今と同じ家族関係だったわけではない。家族は永遠不変に家族なのではない。家族親戚の関係もまた無常であり、永遠不動のものではありえない。生まれ変わるたびに異なってくる流動的な関係性にすぎない。自分自身もまた、生まれ変わるたびに姿形も名前も住所も家庭環境もまったく異なる状態になる。これもまた無常であり、執着迷妄に陥るか、そこから解脱できるかが常に試される。
それにしても、神々はなぜ人間のように失望や絶望や落胆をしないのかといぶかしむ。神々は人類にも世界にも宇宙にも、すべてを与えっぱなしで喜びっぱなしだからではないのかと想像してみる。神々は常に幸福なのだと。
されば、人間の幸福とはなんだろうか。五欲の充足を幸福とみなし、快楽の絶頂や快適さや安楽の続く状態、苦労のない状態を幸福とみなす。だが、現実にはそのような幸福を手に入れて、努力も苦労も無しにずっと維持している人間などいはしない。
ならば、幸福とは何か。それは、成長とその結果得られたすべてについて、他の人達に分け与えることだ。成長には努力も苦労も必要だが、その結果得られる精神的・倫理的な不可逆の向上こそ、幸福の大きな果実なのだ。
しかし、その果実を得るのを邪魔するものがある。それが、私にとっては愛欲や愛執と呼ばれる迷執・惑溺なのだ。
ふりかえれば、多くの場合、わが恋愛感情は、愛ではなくエゴの発露にすぎなかった。そのエゴが病んでいるから、病んだ異性に惹かれる。つまり、健康な愛ではない。けれども、健康な愛だとて、たいていの恋愛はエゴが引きつけあってはじまるもので、愛は、長くつきあったり夫婦になったりして同じ時間空間と生活をともにするうちに初めて芽生え育ってゆくものなのだろう。
エゴはカルマの集積の現れであり、恋愛もカルマの因縁の結果に従っている。エゴの愛欲と恋愛の因縁を解いて自由になるときが来たのか。この課題が、しばらく続くだろう。
『(神よ)御覧ください。与えられたこの生涯は、わずか手の幅ほどのもの。(神の)御前には、この人生も無に等しいのです』
(旧約聖書「詩篇」第39章6節 ※「手の幅」とは小指の外から人差指の外側まで。親指は含まない。1アンマという単位)
by ecdysis
| 2017-12-11 00:44
| アダルトチルドレン・依存症
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