心を病んだ女性とお付き合いするということ~一人の男として
2017年 12月 27日
病んだACの女性たちとつきあってきたことでわかったことがある。
それは、彼女ら自身と彼女らの持っている病人の部分と、体はひとつでも、二人の人と同時につきあっている感覚にさせられたということ。
彼女たちは、自分で自分のことをなんとかしようと悪戦苦闘するけれど、すでに病んでいる部分がそうさせていることに気づかないことがほとんどだった。他者の助けを借りたり頼ったり、十分かつ長い休養期間をもたないといけないのに、自立を焦り、回復を焦り、人並みになることを焦り、有力感を持とうと焦り、そして最悪、別れたり、ひどい場合はどうにもならなくなって自殺したりした。
病んでいる真っ最中の人に、いろいろ提案したり、本を勧めたり、こうしたらああしたらとアドバイスもしたが、聞き入れられない経験も繰り返された。彼女らは、病気に対して無力を認めていないので「自分でなんとかする」ことに固執して症状をより悪化させる。口では回復したようなことをいうけれど、行動が追いついていない。
私に見せるのは「いい子の部分」で、病んだ陰の部分は見せるまいとして、ますます症状が重くなる。いい子の部分だけ見せられれば、私も「この人は回復している」としか思えない。見抜けない私が愚かなのだろう。私への見せかけと実際にやっていることの差を知って、めまいがするような想いになり、ほんとに落胆して、自分の今まで助力してきたつもりの日々はいったいなんだったのかと、みぞおちに一発食らったような気がした。
また、彼女たちの多くは好奇心や知識欲の幅が非常に狭く、ものごとを面白がる感性の低い人がほとんどだった。心を病んでいるのだから、それも当然といえるし、抑うつがあるのでコミュニケーション能力も、それに準じて低かった。彼女らの多くは、なんらかのコミュニケーション障害や人格障害や、人によっては発達障害をもっているのに無自覚だったりする人が多かったように思う。
だが、私自身が、彼女らに対して無力を本当には認めていなかったのかもしれない。
普通の恋人どうしの普通の会話、普通のデート、普通の旅行、普通の親密なセックスなどなど、当たり前のことがどれほど欠落していたことか。つきあってはみたものの、あれもダメ、これもダメ、具合が悪いのゴメンね、の繰り返しになる。そもそも「親密になる」ことに難儀な状態なのだから、もとより望むべくもなかったが。
しかし、そういう失望や悲嘆の繰り返しは、このくらいにしよう。私に与えられた男女の縁が、このようなものだったというだけのことなのだ。
どんなに相手をかわいそうにおもっても、なんとかしてあげたくても、彼女たちが私のこの想いを、本当に受け止めてくれていたかどうか、ひどく暗澹たる想いにさせられる。もちろん、例外的にちゃんと回復して、好奇心も知識欲も旺盛で、面白がりで会話もメールも電話もお互いに弾んで笑い声が絶えないような人もいる。でも、そういう人はごくごく少数派だ。
こういうときこそ、自助団体のスローガンの「3つのC」を適用しよう。
彼女らが、そういう病気になった原因(cause)は私ではない。
彼女らの病気を私はコントロール(control)できない。
彼女らの病気を私は治せない(cure)。
全面降伏である。泣きたくなるが、「あんたにゃムリ」という教訓をいただいたほかは、ぜんぶ無駄だったというわけだ。
そして、祈ることしかできない。
彼女たちの人生に、それぞれ神様の御意志が成りますように。
彼女たちと私の間に、神様の御意志が成りますように。
私の意志ではなく、神様の御意志が成りますように。
by ecdysis
| 2017-12-27 05:16
| アダルトチルドレン・依存症
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