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自我と高慢は、神と人々に生かされているという事実と対立する

 私の劣等感やひがみ根性の根底にあるのは「ほんとは、俺様はエリートなんだぞ」という根拠のない高慢な思い込みだ。

 これは、アルコール依存者だった祖父も「おれは他の連中とはちがう。おれはやってやるんだ」と酔っ払って叫んでいたというし、祖母も自分は本当は大物になるべき人間なのだと、子供の頃の私につぶやいたこともあるし、父もそういう思い込みがあるし、まったくもって家族の病にすっかり伝染している。

 私が目指すべきなのは、そうではなく、これほど惨めでぶざまで劣弱な自分でも、神様は生かしてくださるという事実を素直に受け入れて感謝申し上げることだ。

 こうして、高慢さからくる欠点に向き合うと、どこからともなく「高慢の病にかかっている者をこそ、神様はもっとも憐れんでいらっしゃる」という気持ちがわいてくるのが不思議だ。

 それは、2000年前のユダヤの民に、キリストが現れたことでも証明されている。当時のユダヤ民族は自分たちの聖書とその戒律によって、非常に高慢になっていた。ローマ帝国の二級の属国となることでも、歴史的に高慢さへの罰が与えられていたのに、それでも自分たちの高慢さに気づくことはなかった。そんな状態を憐れんでキリストがつかわされた。

 高慢の病こそ、もっとも重く救いがたい病気なのだと思わざるをえない。高慢の病を治すためなら、キリストの言葉ではないが、目をえぐり腕を断ち落としてでもという、手段を選んでいられない緊急の非常事態という切迫感を感じる。

 私ひとりが、この肉体を維持するために、神の御意志はもちろん、どれほど多くの空気と水と日光、食料・ガス・電気・燃料が供給されたことか。どれほどの多くの牛・豚・鶏・魚・穀物・野菜たちが、その命を捧げてくれたかを考えると身が縮む。衣食住の物品ひとつとってみても、それの原料を山や木や地下から取り出し、形にし、運搬し、加工し、店舗や営業所に並べ、顧客に渡すまでのプロセスに、いったいどれだけの人々の手数がかかっているかを思えば、自分は決してひとりぼっちなのではないと感じられる。

 割り箸ひとつにも、木を植える人、伐採する人、運搬する人、工場で加工する人たちがおり、その工場もまた建物の材料を供給した人たちがおり、建設した設計者や建設業者たちがおり、建設資金を融通した銀行の人たちがおり、木材を加工する機械を製作した人たちがおり、それを搬入・据付した業者がおり、割り箸をつくって送り出す労働者の人たちがおり、受け取った割り箸を店舗に卸す業者がおり、店舗の店員さんたちがおり・・・というように、どこまでも細かく追っていけば、ほとんど無限にひとしいような連携・連鎖とともに、無数の人たちの手数と労働によって、私の生活は成立させていただいているというのが事実なのだ。

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捨てられていたのをひろって育て、
4年かかって、最近咲いたシンビジウム


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by ecdysis | 2018-02-21 00:55 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)