「霊がくだかれる」ということ

 18歳の私は、無知による反発と反逆で神に歯向かい、自他への破壊行為ばかりを志す、仏教でいえば阿修羅のごとき安らぎなき少年だった。ふりかえれば、それはまさに、聖書の一節にある次のような言葉に合致するものだった。

旧約聖書 「詩篇」第73章21節
「わたしは心が騒ぎ はらわたの裂ける思いがする。
 わたしは愚かで知識がなく あなた(神)に対して獣のようにふるまっていた」

 そして、19歳のとき祖母と世界と神への憎悪において底つきし、心が焼野原となった状態で、完全に降伏した。
 それによって、それまで神を否定して認めない、かたくなだった心が砕け、認めるようになった。
 すなわち、聖書的にいえば「霊が砕かれた」のだった。 

旧約聖書 「イザヤ書」66章2節
「わたし(神)が顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人。わたしの言葉におののく人。」

「霊が砕かれた」というのは、自助会の人たちの言葉でいえば「底つきした」という意味に当たる。
 聖書的な表現で出てくる「霊」とは、「神を意識し、神を認め、神の目にかなうものになろうとする心」というほどの意味あいだ。
 その「神」を「ハイヤーパワー」や、神道の「神々」や、仏教の「仏・仏性」といってもいいし、あるいは「アッラー」といってもかまわないだろう。各人種・民族によって「自分を超える偉大な力」の表現はさまざまなので、正統なものであればどう表現してもよいだろう。

 そんな「目に見えないものを信じる心=霊」が砕かれていなかった頃の私には、聖書で神や預言者やキリストが語られる言葉は、命令口調の偉そうな、上から目線の断定の言葉にしか感じられず、意味もわからなかった。「あんたにそんな風に命令される筋合いはない」というような反発しか感じなかった。しかし、19歳のときに霊が砕かれてから、私は聖書の中の神や預言者やキリストの言葉を素直に受け入れ、誤った反発なしに読めるようになった。それがはじまりで、ほかのさまざまな聖典類にも、いろんな神仏の命令というか教えや諭しが書いてあったが、どれも反発することなしに読めている。

 そういう「霊の砕かれた人」あるいは「目に見えない力を畏敬するようになった人」または「人知を超えた目に見えない大いなる存在に祈れるようになった人」を、「神がかえりみられる」というのは、心の不信のバリアを砕けば、神の光が自然にさしこんでくるということのたとえだろうと思える。

 すでに救いの手はさしのべられているのに、それを救いと認識できないのが、人の愚かさというもので、目をつぶっていながら「世界はまっくらで恐ろしい、歩けない」と叫んでいるようなものではなかろうか。自分が目を閉じているのに気づかないか、あるいは度の濃すぎるサングラスをかけているのに、気づかないでいるようなものだろう。それは、自分の盲目さに無自覚なことに由来する。

すでにそのことも、旧約聖書に載っていた。

「イザヤ書」第59章 1~2節
「主(神)の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たち(人間)の悪が 神とお前たちとの間を隔て
お前たちの罪が神の御顔を隠させ
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」

 すでに救いは用意され、手はさしのべられ、導く声もかけ続けられている。
 それなのに、私は自分の自我の欲望や願望や幼稚な感情生活や、そうした目に見えるものだけを信じて、とらわれてこだわり続けることばかりしてきた。 それこそが、神の救いをみずから遠ざける「罪悪」というか「障害」なのだ。
 外はいいお天気なのに、自分は暗くて寒い部屋にひきこもって、暗いよ寒いよ怖いよといって、だれか温めてくれと泣いているようなものだった。

 それに気づくには、激痛をともなう経験を繰り返してやっと自覚するしかなかった。そして「自分はまだまだ真実が見えていないし、きわめてもいない」という謙虚な自己認識が不可欠だった。

 だからこそ、今自分が学んでいることで、「私はすでに知っているので、これ以上、学ぶ必要はない」といってはならないし、すでに知っていると思っても、その先に見落としたり見逃したり、意外な追加事項があったりするので、学ぶ機会を自ら拒否しない方がいい。私は宗教や教えの学習分野ではいつも、「知っている」という言葉を使うことを警戒する。「ほんとに知っているのか? 完全に理解したのか?」と突っ込まれたら、それを証明できないからだ。いつも、「わかったつもり」「ここまでしか知らない」という姿勢がないと、学びは長くは続けられない。高慢をもって心の門扉を閉ざせば、心の中には何も取り入れることはできない。

 神に顧みられたいと願うのなら、良い学びと気づきの成果を取り入れ、自分の心の蔵を豊かにしておく必要がある。
 キリストがいうように、自分の心の蔵に良いものがあれば、取り出して人に良いものを与えることができる。
 逆に、自分の心に無知や高慢の悪いものがあれば、取り出して人に与えようとしても拒まれ嫌われるばかりとなる。

 私なども、書棚に10年以上眠っていた積ん読の本を、ある日突然、手に取る気になって、読んでみたら新しい変化のきっかけになったということも、たびたびある。いつどこでだれによって、変化がもたらされるかわからない。あとからふりかえれば、タイミングが合いすぎるほど合っていて、それを「神の計画」と呼んでも差し支えないと思う。

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by ecdysis | 2018-03-11 00:55 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)