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「生かされている」と感じることが救いのはじまりだった

 19歳の時に読んだカルト教祖の新書本全3巻の中で、たった一行、それについてだけは感謝できる文章があった。
 新書3冊の中で役立った言葉が一行しかないというのも驚くべき無駄本だと思うし、その一行もほかの宗教や道徳の本を読めば、どこにでも書いてあるようなことなので、その本の著者名の教祖が格別すぐれていたなどということでは決してない。
 それはともかく、私が衝撃を受けたのは「自分が生きているということと、生かされているということの間には大変な差がある」という一文だった。

 それを目にしたとき、「生かされている」という、これまで知らなかった自分のありようを、生まれて初めて知り心の何かが開けた気がした。

 それまで「自分は生きている」とばかり思っていた私にとって、「生かされている」という言葉は、世界が違ってみえるほどの新鮮な感動をもたらした。
 そして、自分は地獄に落ちる寸前のダメ人間と思っていた19歳の青年は、これも初めてのなにものかに包まれ抱かれるような大きな安堵を感じた。

「自分は生きている」と思っている間、私はずっと「生きねばならない」と肩肘張って身を固くして息をつめて生きていた。
 自分の人生は自分が中心で、自分が全責任を負い、幸不幸は自分の努力次第だと信じていたし、それ以外の発想はまったくなかった。
 ごちごちのごりごりの絶対自力思考だった。

 そこに初めて「受け身の立場である自分」の自覚が生じて、ほとんど瞬間的に、両親や祖父母や学校の教諭たちや給食のおばちゃんたちなど、自分を「食べさせてくれた人たち」がいることを洞察し、衣食住すべてにおいて、縫ったり調理したり建てたりする人たちがいて、日夜活動してくれているので、自分は生きていられるのだとわかった。

 視界と心を覆っていたカーテンのようなものが開かれたような気がした。

 なにもかも限りなく独力自力でやらねばならないと頭から思い込んでいた青年にとって、「自分はたくさんの人たちに生かされてきたし、今も生かされている」という自覚は、はかりしれない変化を心の中に起こした。
「生かされているという事実」の生まれて初めての認識は、孤独と恐れと緊張とでパニック寸前の眼玉ギョロギョロ状態だった私にとって、どれほどの安心感を与えてくれたことか。

 それは、その頃「自分のことしか考えていなかったエゴイスト」の自分を自覚したばかりでもあった私に、人間社会というものが自分という個人を支えてくれているだけでなく、お互いに支えあっているという事実をも認識させた。

 森羅万象によって自分は生かされているし、天地自然万物を生みなし育てる神に生かされているのだと思い至ったとき、私の中からパニック障害がみるみる離れていった。自分は、神という目に見えない大いなる存在に生かされているという言葉にならない感覚は、内面的に地獄の谷の崖上にいた私の恐怖感の深刻さをもごく短期間で消失させてしまった。

 その後、発作的に恐怖感が強まったりパニックになりそうなときは「自分は生かされている。生きているのではない。生かされている」と心に念じるだけで、不思議な安堵感がわいて落ち着けるようになった。

 当時、読み始めた新約聖書のキリストやパウロの言葉の影響が大きかったおかげもあり、「生かされている」と思うだけで、私は緊張と恐れに強く握りしめていた手を開き、肩の力がぬけ、森羅万象に支えられて助けられているような気になってほっとした。私を生かしている神と自然と人々は、決して私を殺すために活動しているのではなく、私をふくめたほかの人たちを生かすために活動していると信じられる。
「生かされている」という認識は「生かしている神」を認めて信じることにもつながった。

 今にして思えば、無自覚ながら「神の愛」を「生かされている」という事実の向こうに感じ取っていたのだとわかる。
 私にとって「生かされている」ということは「神に(あるいは目に見えない大いなる意志に)愛されている」ということだったのだ。
 言葉にこそならなかったが、「生かされている」=「愛されている」という感覚にほかならなかった。

 生かされているということは、愛されているということであり、愛されているということは「辛いことがあってもあきらめないで幸せになるんだよ」と慈悲深い励ましと見守りを頂いていることだった。
 生かされていると感じるとき、私は同時になにものかが、私に「幸せになってほしい」という親心をもって見守り、呼びかけてくださっているのを、どこかで感じていた。

 しかし、そういう重要な気づきの感覚があったのにもかかわらず、その後、私はカルト教祖にだまされたり性格改造セミナーに巻き込まれたり、アルコールへの依存が進んだり、原家族との共依存に四苦八苦したりと、幸せになりなさいと励まされていたのに、なぜかそれと遠ざかることばかりが続いた。
 生かしてくださっているはずの神が、なぜ私にカルトや詐欺師や偽りの教えなどにばかり出会わせるのか、さっぱりわけがわからなかった。

 この30年間というもの「人生で最初にぶつかったのが、なぜ詐欺やニセモノなどの偽りばかりなのか。なぜ、最初から正直で真実なものに出会えないのか」と、新約聖書のキリストの言葉との出会いもすっかり忘れて、ひそかに悩み続けてきた。
 キリストの言葉も、その後に出会った詐欺師どもにだまされるのを防いではくれなかったし、うつ病になったときも、さしものキリストの言葉も回復に効き目がないと逆恨みしたほどだった。
 そして、その悩みに最近、答えが与えられた。30年間の問いかけに明白な回答が与えられた。

 その回答は、きわめてAC的な原因によると判明したので、それについては次の投稿で改めて記したい。

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by ecdysis | 2018-03-25 01:50 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)