私の性欲の向こうにある怒り

 現在、毎日、座禅をしながら性欲の克服に挑戦している。

 ACの特徴のひとつである「好色さ」という性依存の傾向を修正し、その奥にある古くからの感情と対面するためだ。
 古くからの感情。それは「怒り」だ。理不尽なアルコール依存症者と精神障害者の家族のふるまいに対する子供の怒りだ。問題飲酒者の家族としての激しい怒りだ。

 その怒りは激越だ。誰に対しても八つ当たりしたくなる衝動に駆られる。もちろん、性欲の抑圧には、だれでも苛立ち怒りっぽくなるのが普通だろう。しかし、単なる我慢と抑圧が目的ではない。この小学校の頃からの怒りの苦しみを乗り越えたいのだ。

 すでにタバコと飲酒については、克服し続けている。どんなに頭にくるときでも、悲しい時でも、落胆するときでも、私は禁煙と断酒を続けてきた。タバコは自力で30年、酒も依存して逃げることを自助グループに通いながら、繰り返さないで15年が過ぎようとしている。

 恋愛感情や自慰行為への依存傾向の自覚があるので、それをきっぱりやめたいという禁欲への志向は、もう二十歳代半ばから始まっている。

 いつか、これをやめたいと思いながら30年以上が過ぎた。恋愛や結婚によって適切で健康な性生活を、継続的に送る機会がなかったため、私は多くの時間を自分の性依存の問題について意識し続けることになった。

 わかっている。仏教でも男性器を「魔羅(マラ)」と呼び、越えがたい敵のようにみなしている。これは「悪魔」を意味するサンスクリット語の音写だ。禅宗の寺の前に「不許葷酒入山門(葷酒、山門に入るを許さず)」という石柱が立っている。これは、強精剤にもなる「ニラ・ニンニク・ネギ」の類や酒は、寺に持ち込んではならないという掟である。性欲を刺激する要素を排除しているのだ。

 心と体の問題をあつかうとき、男女とも性欲の問題は避けては通れない。若いうちは恥ずかしがって隠すと思うが、私ぐらいの年になれば、なりふりかまわずそこを超えるためにあえて表現することもできるようになる。女性の性欲についても、仏典の戒律で、尼僧に対して自慰用の男性器を模した道具を造ることも所持することも禁じるという一文があるという。

 密教でも、煩悩を切り払い浄化する不動明王はじめ五大明王が昔から仏像に刻まれ拝まれているが、その中に愛欲を解脱へと昇華させる「愛染明王」という明王が配されている。そういった強力な崇拝対象を設定して頼らねばならないほど、愛と性は大変に重大な問題なのだとわかる。「愛染=愛欲貪染」ということで、愛情や情欲に関するむさぼりととらわれに染まった心を浄化する明王として尊崇されてきた。

 私は明王信仰をもたないので祈願したりはしないけれども、仏像にすがりつきたくなる気持はわかる。何百年も寺社に置かれ、何十世代、何万人にも拝まれてきた神仏の図や像やイコン・十字架には、みなその発祥と伝統に、深く重要な意味と理由があって存在している。それぞれが人の悩み苦しみと煩悩からの解放を願い、よりよい生き方と幸福への祈る心の現れであることを痛感させられる。

 かつて、カルト教団にいた若いころは、そうした祖先・先輩の人々の信仰心に思いいたらず、愚かの極みであった。自分の信じた教義以外、過去の宗教信仰は、すべてまちがいでもはや無用と盲信していた時期もある。まったく無知のいたりで恥じ入らざるをえない。

 このように、性欲というものと向き合うと、禁欲を旨とする寺や教会の僧団といっても、性の問題はつねにつきまとっているとわかる。欧米のキリスト教会でも一部の神父や牧師による同性・異性双方の児童・青少年への性虐待が問題になっているし、現代のアメリカの瞑想センターでも、参加者の男女関係のトラブルが絶えないそうである。ため息が出るが、それぐらい、性欲はとらわれの最大の筆頭株といっていいだろう。

 なにしろ、過労や強いストレスにさらされたときに、生理的快感や情緒的依存、酔いという嗜癖に逃げて紛らわすのがもっとも手っ取り早い。即効性があるから依存してしまう。しかし、それは、安らぎを求める心にとっては、じわじわと蝕む死の毒物である。酔いと麻痺をもたらす薬物もアルコールも、化学的には人体生理に対する「毒物」である。「酔っ払う」とは「毒に脳や臓器が侵されて起こす急性の病的状態」にほかならない。

 恐ろしいのは、人間は外からの毒物に反応するだけでなく、心身のストレスに反応して脳内に非常時用の脳内物質を分泌する仕組みがある。具体的にはアドレナリンやアセトンなどだが、それらもまたアルコール様・薬物様の化学物質で、「酔い」を与える。ギャンブルや買い物や食べ吐き依存は、いってみれば自分で脳内に酔わせる物質を作り出して酔う嗜癖をもっているということになる。

 しかし、私個人にとっては、依存を続けていてはせっかく「恋愛感情もとらわれである」という自覚にやっと達したのに、先へ進めない。

 キリスト教的な「愛」を「無償の愛」という規範とすれば、仏教的な「愛」はすこぶる意味がよろしくない。「愛着」とか「盲目の愛」とか「愛執」とか「渇愛」とか、親密さと盲目さと感情的にとらわれ溺れやすい状態がいっしょになっている言葉だ。「欲望すること・好むこと」を意味するといってもいい。仏教において「愛」とは「欲望」「むさぼり」「偏愛」をひとつにしたような語彙なのだ。

 だから、漢字で同じ「愛」だからといってキリスト教と仏教ではほとんど逆のような印象を与える。これは「神」といえば「唯一絶対の神」とイメージするか、「八百万の神」とイメージするかの違いにも似ている。

 今の私にとって、「愛」は、仏教の愛だ。とらわれの愛、愛執の愛、偏愛の愛、盲目の愛、愛欲の愛だ。その愛のありようを想うとき、そこに逃避し、溺れ、現実の苦痛と疲労を一時的にもせよ忘れさせてくれる依存・嗜癖(アディクト)の対象だ。

 アディクトは、たいてい自分の本当の感情を隠して見ないようにするための行為なので、それを強制的にでも中断すれば、そのアディクトを起こさせている過去の感情が、トラウマの記憶とともに表面化してくる。

 私の場合、それが「怒り」なのだ。

 今日も職場で、箸にも棒にもかからない泥酔のアルコール依存症者に電話でからまれて閉口し、怒りをおさえきれなかった。助けてほしいといいながら、こちらが提案することや質問にはすべて「いやだ」「こたえたくない」という、どうしようもない状態だ。私の祖父や父や弟も、酔うとそんな状態が常だった。

 祖母や母を悩ませ私を苦しめたアルコール依存症の家族へのトラウマを刺激されて怒りがこみあげ疲労した。その電話の主は、放置すれば死ぬかもしれない。「死んじゃだめだよ!」と私は訴えたが、本人は自分が電話したことも、私が語ったことも、ほとんど覚えていないだろう。3時間前にしゃべったことさえ覚えておらず、「そんなことはいってない」と逆切れする始末なのだ。救急車に助けを求めればいいかもしれないが、それが可能かどうかもわからない。とりあえず、他の回復したアルコール依存症者の人にバトンタッチして対応してもらった。

 アルコール依存症者の家族でもある私は、トラウマという意味で「アルコール依存傷者」とでも自称したいくらいだ。
 普通、これほどひどい状態の人には、家族は「死んでくれ」と思うのが普通だ。酔って家庭内暴力をふるう私の弟に対して、母がそういっていたのを思い出す。依存症者は、家族をどんなに苦しめたか、どんなにまわりを傷つけたか自覚がない。傷つけた記憶さえないのだ。たまに酒が抜けているときに、「おまえは酔っているときこうだから」と諭すと、弟は「いつもそんなことをいう」と唇をとがらせていたのを思い出す。

 そんな弟のことを思い出させる相手に遭遇し、私は自分の家族への怒りが解決していないのを思い知らされた。

c0032696_01170865.jpg



トラックバックURL : https://ecdysis.exblog.jp/tb/29696906
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
削除用パスワード
by ecdysis | 2018-08-20 00:57 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)