「まともである」ということはどういうことか。
2018年 08月 23日
仏教を学びはじめてから、「まとも」であるとは、どういうことかと、父母や親戚や世間一般の価値観で当然としてきた基準が大きく揺らいでいる。
「まとも」とは、常識的であるということか。常識という共通イメージに沿って、家庭や学校や職場や団体の規則・しきたり・世間の相場に従うことか。道徳を守るということか。協調性を大事にし、倫理的に他者に害をなさないということか。
私は、自分のAC性による疎外感と孤独感とトラウマの中で、「ふつうになりさえすれば幸福になれる」と信じた。
そこで思った「ふつう」とは、正確には「まとも」ということだった。
だから「まともになれば幸福になれる」と信じたのだ。
そして、私が願った「幸福」とは「苦痛がない」ということだった。耐えがたいほどの苦しみが一切ない状態を、私は「幸福」だと思い込んでいた。18歳のとき、「人は生まれてきたからには、幸せにならねばならない。こんな理不尽な苦しみを味わうのは本当じゃない」と思った日があったが、そこであった幸福のイメージは「苦痛というものから解放された恒常的な状態」であったことが思い起こされる。
しかし、還暦にあと三年で達しようという今頃になって、仏教を学び、私の求めた「幸福」はどこにもだれにもなかったのだと気づかされた。釈迦は、人の自我は苦しみしか生まず、苦しみの原因であり結果であるとして「一切は皆、苦である」と教えている。
そして、悟りをもとめる指標のひとつとして四法印を教えた。
それは、「諸行無常」「諸法無我(自分のものである、自分だと思っているものは、実はなにもない)」「涅槃寂静(悟りの永遠の静けさの境地)」、いまあげた「一切皆苦(自我によるすべては苦を生み苦をつくり苦しみとなる)」の四つだ。
この「一切皆苦」は、私の願った「幸福」とまっこうから衝突し、最初に目にしたとき、認められずうなずけなかった。
人生、楽しいことも、快楽なこともあるじゃないかと思った。
しかし、その楽しさは永続しない。宴のあとの寂しさは来る。打ち上げ花火大会の後の寂寥は苦しみではなかろうか。いつまでも続いてほしいと思っても終わりはくる。楽しい花火デートでも、混雑の中、だれかに足を踏まれたり、肘鉄をくらったりすれば、たちまち怒りと苛立ちを発して、ただちに心は我慢と忍耐の苦しみに満たされる。
その楽しさは、自分たちだけが享楽して、近隣に迷惑をかけたりすれば、その報いは苦情や悪い噂話という苦しみとなって返ってくる。楽しさや快楽の多くは、それを体験する時と所において、だれかが場所を用意し、職業的にあるいはボランティア的に舞台を準備してくれているからこそ体験できる。遊園地でもホテルでもレストランでも居酒屋のコンパでもそうだ。
恋愛もそうだ。楽しいデートを繰り返して結婚し子供ができれば、もはやラブラブではいられない。子供が無事に成長するか、いじめにあわないか、相手の不倫や浮気があれば苦しむし、離婚の危機も何度か訪れるし、離婚することもいまや珍しくない。
一見、まともそうな家庭も、ふたをあければ問題だらけだ。隣の芝生は青く見え、遠くのものはきれいに見えるが近づいてみると思ったほど美しくない(遠美近醜)。
きれいな場所は、だれかが必ず人知れないように、きれいにしてくれている。快適さは、だれかがそのために苦心して努力して陰で働いてくれているからこそ保てる。どんな家庭も、家族がいれば、妻や母やほかの家族が、毎日掃除洗濯炊事をしてくれているから、きれいに快適にさっぱりしていられる。もし、それがなかったらどんな家でもたちまちゴミ屋敷になる。そうならずに済んでいるのは、だれかが絶え間なく掃除とゴミ出しをしてくれているからだ。
だが、そのことに気づいて感謝する人は少ない。もらったらもらいっぱなし。養ってるんだから当然だろう、カネを払っているんだから当然だろうとしか思わない。そういう心根でいると、いつか快適さやきれいさを享受する側から、提供し奉仕する側にまわされることになる。立小便の快楽を味わって申し訳ないともすまなかったとも思わなければ、いずれ自分が人の立小便の始末をさせられることになる。
そう考えると、なにごとも楽しさの背景に苦が控えていて、快適さもあやういバランスの上に成り立っている。
楽しい経験の最中でも、楽しめない心配事やほかの気がかりがあると楽しさ半減だし、相手やすれちがう人たちや自動車に「気にくわない」「目ざわりだ」「なんだこいつ」「ふざけんな」「じゃまなんだよ」と感じる、目障り耳障り気に障ることが絶無ということもありえない。
100%の快適さと幸福感を求めているのに、それらは五感のどれかが不快を感じれば、たちまち苦痛になる。
それらのどれもが、私の求めた幸福ではない。求めたものが得られない苦痛(求不得苦)から、解放されることがないという意味だけでも「一切皆苦」を認めざるを得ない。
by ecdysis
| 2018-08-23 01:48
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