アニメと内なる子供が泣くとき

 御多分にもれず、私もアニメ世代なので、大好きなアニメはいくつもあるが、特定のアニメやアニメソングの一節に、どうしても内なる子供が反応して涙ぐんだり、胸が熱くなったり、しまいにはトラウマを刺激する要素が強すぎるせいで再視聴ができない回があったりする。

 筆頭は「アルプスの少女ハイジ」。フランクフルト編が再視聴できない。アルムの山でのびのび育ったハイジが、叔母の画策で都会のフランクフルトのクララの家に連れていかれる。それからの生活は、ハイジがどんどん明るさを失い、精神が崩壊してゆき、しまいにはうつ病になるさまを毎回克明に放映していた。その過程は、私たち兄妹が母の実家で祖父母と安全な暮らしができていたのに、生家に戻って酒乱とケンカと精神障碍者と暮らす地獄にいた中学時代の私にとっては、まさにリアルな現実だった。見ていて、自分のことのようにものすごく辛かった。

 今は、こうして言葉にできるが、当時はそこまで因果関係がわかっていたわけではない。ただ、ハイジがアルムの山に帰ることが決まり、列車の窓からアルプスの山が見えてきたとき、身を乗り出して腕を振り笑っているハイジの姿を見たとき、中学2年の私は思わず号泣した。
 高校時代に再放送があり、同じ回をみたが、やはり号泣した。何回みても、たぶん泣くだろう。思い出しただけで胸がつまる。
 子供がわけもわからず理不尽で不幸な目にあうアニメが、とにかく見られない。実はアニメの「フランダースの犬」もまともに見たことがない。
 私の中の子供が、ハイジやネロの姿に自分の姿を重ね合わせているので、同一化しすぎて情緒的に耐えられない。彼らの苦しむ姿は、子供の私がトラウマを追体験することにほかならない。

 だから、アニメの「赤毛のアン」も弟から勧められて、三十歳を過ぎてから見始めたが、マシューとマリラが、私の母方の祖父母と重なり、孤児院にいたアンが、マリラのもとでしつけられていくプロセスが、小学校五年のころの私自身と重なり、毎回のように涙が浮かんだ。
 あまりに共感したので、ルイス・モンゴメリの原作も松本侑子さんの素晴らしい翻訳で読んだが、原作を文字で読んでも、やはり泣いてしまう。
 それぐらい、私の児童生徒時代は、きわめて辛く苦しく、深い心の傷を刻み続けた日々だったということなのだ。
 それで、高校になってフラッシュバックを起こし、対人恐怖とパニック障害を発症し、アルコール依存症になってしまったのも無理はない。

 その高校時代の恐ろしい苦しみは、いまでも特定のアニメソングの一節を聞くと、胸苦しく刺激されて涙腺がゆるむ。
 たとえば、ガンダム世代で富野ファンでもある私は、「重戦機エルガイム」のはじめのころの主題歌の歌詞に、いたく心がゆさぶられた。
「たしかなものが、なんにもないね、どうしてぼくはここに」というくだりにくると胸がつまって歌えない。高校・浪人時代の私の苦しみを、そのままずばりと現した言葉だからだ。

 同じことは、「風の谷のナウシカ」の安田成美さんが歌っていた主題歌にもいえて「なぜ ひとは傷つけあうの」の一節にくると、胸からつきあげてくるものがある。生家では、ケンカと罵りあいと暴力ばかりだったので、「なぜ ひとは傷つけあうの」の歌詞は、子供の私の心の声そのものだった。

 あとはアニメ「南国少年パプワくん」を四十歳を過ぎてから見始めたが、その主題歌にも、ぶわ~っと涙が出る歌詞がある。
「もう なんにも しんぱい いらないよ」が、まるで私専用のアファメーションのように響いてくる。

 子供の私は、どんなにか「もうなんにも心配いらないよ」とだれかにいって欲しかったことか。そうして、大人たちからの保護と配慮が、いかになかったかをパプワくんの歌が教えてくれた。

「もうなんにも心配いらないよ」という意味の言葉は、実は般若心経にもある。
「度一切苦厄(どいっさいくやく=一切の苦しみや災いから救う)」「無有恐怖(むうくふ=恐怖はもうない)」
 苦しみと恐怖に満ちた私の原家族の体験によって、まさにこの二つの単語を実現することが、青年期から私の人生の心からの願いとなった。

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Commented by Reimei34 at 2018-10-01 19:03
「子どもの激しい痛み」を扱った優れた作品は、漫画、アニメ、文学、他にも様々なジャンルにありますよね。
ハイジやネロは…本当に、もう…。
私も三十歳を超えてから「赤毛のアン」シリーズにはまり、モンゴメリの他の作品もたくさん読みました。
モンゴメリは自身もACだったようで、特に彼女を苦しめた祖母を思わせるような登場人物の「支配」から、主人公が徐々に脱却して行くようなストーリーの作品もありますね。
そういう心の励まされる作品として、「青い城」や「丘の家のジェーン」は、今も手元に置いて、時々読んでいます。
そのモンゴメリが、晩年うつで苦しんだらしいのは、心の痛むことです。現在のように、オープンに話し合えるような「場」があればよかったのに、と思います。
彼女が心から欲していたのも、安全で愛情に満ちた場所としての家庭、だったのでしょうね。
Commented by ecdysis at 2018-10-03 08:33
ありがとうございます。モンゴメリの生い立ちや不幸な牧師夫人としての結婚生活については、松本侑子さんの解説にも書いてあり、私も心が痛みます。彼女はACであり、傾向としてスピリチュアリストでもあったみたいですね。世界的ベストセラー作家に妻がなってしまったという、夫の牧師さんも心を病んでしまったのですね。西洋観念の「女性らしさ」にいかに苦しんだか、男性の私から見ても非常につらかっただろうなと胸が痛むのを禁じえません。「良き妻、善き母、聖職者の妻」という三重の縛りでは心を病まないではいられないでしょう。むしろ、彼女の読者はそういう縛りに合った作品を求める傾向があったようで、「赤毛のアン」シリーズも作品が進むにつれて、アンの自由奔放さが薄らいでゆき、モンゴメリ自身も「もう、アンなんてたくさんよ」と書きながらつぶやいていたそうです。「女の子らしい作品」として『赤毛のアン』は評されがちですが、それは偏見であって、才女モンゴメリの優れた文芸作品であることはまちがいないと思います。アップルパイやパッチワークやパフスリーブのような「西洋の旧世紀の女の子趣味」の本ではないんですよね。
『青い城』『丘の上のジェーン』、今度、探してみますね。
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by ecdysis | 2018-10-01 00:35 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)