無常の体現~容色が衰えて老いてゆく悲しみ

 女性依存のある私は、釈迦の弟子の尼僧たちの話(『ブッダとその弟子89の物語』菅沼晃/法蔵館)を読んで、いたく心が揺さぶられている。女性は悟りを開くのが難しいと古来いわれているし、釈迦も自分の養母である叔母が、男ばかりであった僧団に、初の女性としての出家を願い出たとき、何度も断っている。
 しかし、出家したいとあきらめずに繰り返し懇請する女性たちの願いをいれて、尼僧の僧団がつくられ、女性の中からも悟りを開く偉大な出家者が続出した。

 彼女たちの中には、少なからず高級遊女として有名だった美女がおり、王侯貴族から求婚されまくったほど美貌を誇った女性たちもおり、出家した彼女らを、世俗の男たちが草庵まで追いかけて待ち伏せしてレイプしたり、あるいは王宮に拉致したりして性的暴行におよぶという悲劇もたびたび起こっている。出家したからといって世俗側からの欲望を回避するのは容易ではなかった。尼たちの中には、レイプしようとした男たちの前で自分の両眼をえぐりだし、その欲望を押しとどめたという尼僧たちもいる。それらの屈辱をのりこえて、何人もの美貌をうたわれた女性たちが、修行を積んで悟りを開いた。
 名前だけをあげても、バッダー・カピラーニー尼、マーガンディヤー尼、シリマー尼、ケーマー尼、アッダカーシー尼、アンバパーリー尼、ウッパラヴァンナー尼などがいる。

 彼女らの多くは、遊女稼業で稼ぎまくって大金持ちになっていたが、釈迦の教えに触れて、愛欲の無常と、愛欲への嫌悪とを感じ、自分が老いていって容色が衰えて見る影もなくなった無常を真実に受け止めた。
 釈迦の諸行無常と肉体は不浄物であるとの教えを、本当に悟った女性たちだったことが、経典には書いてある。

 彼女らの言葉は、男である私の愛欲深い心にも、思わぬ衝撃を与えた。

 私の愛する女性たちの顔も肉体も、みな老いてゆく。過去にかかわった女性たちは、私の心の中では当時の若く美しい姿のままだが、現実の彼女たちは老いているはずだ。面影はあるかもしれないが、再会しても驚くような変貌をしているだろう。私自身も相手にそう思わせるのはわかっているが。

 不思議にも、私は自分の老いと容色の衰えを嘆く気はしない。それよりも、彼女たちが、あるいはいま若い女性たちが、その美しい若々しい肌も色艶も、乳房も腰も脚も、数十年後には見る影もなくなるという事実に、ショックを覚える。
 若い女性の美しさや、その年代の女性だけがもつ可憐さや、いきいきとした唇や首筋の輝きは、私にとっては青年時代から憧れであり、「女性」というものへの欲望と励みと楽しみをかきたてる燃料でもあった。
 それが、無常であるなどとは実感すらできなかった。なんとなく、自分の記憶とさほど変わらないままでいるのではないかと、根拠のない妄想を抱いていただけなのを、今更ながら思い知らされた。

 私が愛してめでた女性たちの美しさが、一過性のもので、やがてはだれもが喪失していくものだと信じられるだろうか?
 結婚していれば、妻の姿にそれを見出して少しずつ受け入れていけるのだろうが、私は独身なのでそういう機会はない。
 私が好んで愛し執着した可愛さや美しさが、そのままではいられない移ろうものでしかないという事実を、私は愕然とする想いで受け止めている それでは、私が永遠なれ、不変なれと無意識に望んでいた「若い女性の美」は、いったいなんだったのだろうか?

 あえて言葉にするのも虚しいがいおう。それは、私にとって「偶像」だった。「偶像」はいつか破壊されねばならない。
 それは、激しい悲しみを私にもたらした。あれほど深く強く愛着したものが、愛欲の対象としたものが、いつまでもその姿を保ってくれはしないとはなんということだろう。ある種、狂おしいような悲嘆の感情が、涙を催させる。

 いまは若くても、その娘も、三十年もすれば、若さを保ってはいられない。一世を風靡する美貌の女優も歌手も、まったく同じだ。
 今は高齢の有名女優や歌手の若い頃の写真を調べてみれば、みな信じられないほどの美女ぞろいだったとわかる。
 時は残酷だとかいうつもりはない。万人が老化と衰えを避けることはできない。
 問題は、私が心の中で若い女性の美しさの記憶を、変わらないものとして留め続けようとすることなのだ。

 若い可愛い新人のアイドルやアダルトビデオ女優たちが、何人もデビューしては消えてゆく。彼女らの現世の存在は消えないが、彼女らの若さ美しさの魅力的な時期が消えてゆくのだ。若い女のイメージに執着しつづけて、次々に現れては消えるアイドルやAV女優を、いつまでも追い続けていられるわけもない。果てしなくきりのない生滅が繰り返されるだけだ。ビデオでも画像でも、女優はちがっても煽情的なアングルやポースや体位は同じだ。制作サイドの売るためのマニュアルは同じなのだから、アイドルやAV女優たちの消費材としての価値は短期間ですりへってしまう。
 それらの画像や動画は、幻想であり実体ではない。私は、二次元の幻影を愛して好み執着していただけで、生身の実体にはなにひとつ触れていない。

 私が楽しみにして快楽をそこからむさぼっていた対象はすべて幻だったのだ。私は、幻を楽しみ、幻を貪り、幻を励みとし、幻に期待して、幻を求めて、追いかけ続けてきたにすぎない。対象が幻なのだから、現実的に実感のある出来事は何も生まれはしなかったし現れもしなかった。

 私の異性愛は、幻だった。性欲も幻に向けた虚しい欲望だった。何も残らず何も果たされなかった。永続する関係も家庭づくりも現れなかった。それらは、はじめから「こうあってほしい」という幻影にすぎなかったからだ。

 買い物帰りに気づいた愕然とする圧倒的な事実の衝撃である。私はなかば泣きべそをかきながら、ふらふらと歩いて家路についた。
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  ウッパラヴァンナー尼


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by ecdysis | 2018-11-04 04:15 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)